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【国際】韓国半導体、油断してすべて追いつかれた
まずスピード。サムスン電子の最初の半導体工場である器興(キフン)第1工場は1983年9月に着工してから6カ月で完工した。早くても1年半はかかるという通説を完全に跳び超えた。ヒーターを付けてコンクリートを乾かす奇想天外な方法まで動員された(『李健熙半導体戦争』イ・ユンウ元サムスン電子副会長回顧)。技術採択はいつも「速く、もっと速く」だった。他の人たちが5インチ半導体ウエハーを使っている時に6インチを、8インチが商用化されている時に12インチを開発した。このためには大規模投資が必要だった。サムスンはDRAM価格が急落し天文学的赤字を出した時も積極的投資を決行した。
そうだとしても日米半導体協定がなかったとすれば後発走者である韓国が日本に追いつくのは容易ではなかっただろう。米国は安保・価値同盟である日本の半導体産業を力で押さえ込んだ。日本のメモリー半導体のシェアが80%に上昇し米国代表企業のインテルがDRAM市場から撤退したころだった。日本は結局生産原価を公開し低価格攻勢を中断した。急落したDRAM価格が上がり始め、韓国に機会が訪れた。日米半導体協定が1986年7月、マイクロンがNECなど日本企業をダンピングで提訴したのが85年6月、サムスン電子の器興第1工場完工が84年3月、器興第2工場竣工が85年3月だった。すべてが映画の脚本のように合致した。その後日本は半導体製造市場から押し出され、韓国と台湾がその穴を埋めた。
中央日報日本語版2024.03.07 11:26
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