あわせて読みたい
【前田日明コラム】ヒクソンvs山本宜久戦 俺は「突き出せ!」と叫んでたんだよ
東スポWeb
日本マットで無双したヒクソン・グレイシー
【前田日明(25)】1993年に米国でUFC(>>1)が始まり「バーリ・トゥード(なんでもあり)」って言葉が騒がれ始めた。当時は日本武道館を借りようとしてもリングスのルールですら「そんな野蛮な競技に貸せない」と言われた時代。馬乗りでタコ殴りとか、サッカーボールキックとか、日本では認められるわけないと最初は思ってたんだよね。
それでも94年から開催された「ヴァーリ・トゥード・ジャパン」がヒクソン・グレイシー(>>2)を招聘すると話題になった。95年の大会ではヒクソンとリングス・ジャパンの山本(宜久)が戦った。当時彼はデビュー3年目で「外で試合して経験積みたい」というので「何でも挑戦せえ」って言ったんだ。
ヒクソン相手に組んでテークダウンされたら面倒くさい。ルールを見たら「ロープをつかんでもいい」と。ロープを背にして動いて「組まれたらすぐロープをつかめ」とアドバイスした。決めるのはフェースロック。でもアイツ、ロープを抱えたままフェースロックやるから締め疲れしちゃってさ。でも立った状態で股間を斜めに突き出す感じにしたら決められる。俺はリングサイドで「チ〇ポ突き出せ!」と叫んでたんだよ(笑い)。3ラウンドに山本が締め疲れて離した時、ヒクソンがパッと決めにいった。やっぱり勝負どころを分かってたね。
若い選手はどんどん経験を積んだ方がいい。山本もこの試合で株を上げたし「ザ・トーナメント・オブ・J」に優勝した高阪(剛)が(98年に)UFCに行くのも俺が勧めたんだよね。96年には田村(潔司)もUインター(>>3)から移籍してきて、リングス・ジャパンも充実してきた。
田村が入ってきた後にはUインターは解散状態で選手が宙に浮いていた。俺はレフェリーの和田(良覚)君だけ欲しかった。道場で若い選手に教えられるから。引っ張ろうと思った時に、金原(弘光)とか山喧(山本喧一)とか面倒見てほしいということだったので、リングスに入れたんだよ。だけど、田村は崩壊前に来たから「裏切り者」みたいな扱い。ウダウダ言うのもいたから試合組んで勝った方が偉いということにした。で、試合させて長井(満也)は負けたのに「前田さんはえこひいきしている」とか言い出してさ…。
俺も97年12月の福岡大会で田村に負けた。もう40(歳)近かったし「そろそろやな」と思ってた時に田村が取ったから。下が育ってきて安心する気持ちもあったし、やっぱりトップの人間は実力がないとダメだよね。
☆まえだ・あきら 1959年1月24日生まれ。大阪市出身。78年8月に新日本プロレスでデビュー。84年に第1次UWFに参加後、88年に第2次UWFを旗揚げ。91年にはリングスを立ち上げた。99年2月に「霊長類最強の男」と呼ばれたレスリング五輪3連覇のアレクサンダー・カレリン(ロシア)との一戦で現役を引退。その後も海外との人脈を生かして数々の強豪を招聘した。2008年3月からアマチュア格闘技「THE OUTSIDER」を主宰。192センチ、現役当時は115キロ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/45bfff3579b8fb065476fd06407a549bd19f6829
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20220929-00240316-tospoweb-000-1-view.jpg?pri=l