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【妄想歴史】「朝鮮時代末期、日本のスパイは身辺保護まで受けながら朝鮮を偵察した」 パク・ヘスン韓日関係研究家
[インタビュー]韓日関係研究家のパク・ヘスンさん
『一線を越えた日本スパイ隊――その驚くべき狡猾さ』。日本語専門の翻訳家であり韓日関係研究家のパク・ヘスンさん(58)が、3年前に初めての著作『1894 日本の朝鮮侵略』(ナノク刊)を出版した後、最近出した2作目の著書だ。最初の本では日本の軍部と外務省の資料をもとに、日清戦争が勃発した1894年に日本が武力で朝鮮国政を掌握した過程を示したとすれば、最新作は日本が明治元年の1868年から1894年まで朝鮮にスパイを送って偵察をした過程を、やはり日本側の当時の資料やスパイ行為をした人物の回顧録を通じて詳しく明らかにした。
今月2日、ソウルの本紙社屋で著者に会った。
「日本は1882年の壬午軍乱後、朝鮮と交わした済物浦条約で、自国の外交官やその家族たちも朝鮮内地を旅行できるようにしてほしいと要求し、護照(内陸旅行許可証)申請権を獲得します。当時護照を発行した60件余りを記録した韓国内の資料を日本の資料と照らし合わせてみると、発行を受けた者の大半が日本軍の情報将校、つまりスパイでした。朝鮮政府が身辺保護までして日本のスパイ行為に便宜を図ったということです」。今回の本の学術的意味を自評してほしいと問うたところ、著者はこう答えた。
1986年に檀国大学日文科に入学し修士課程まで終えた著者は、30年近く日本語翻訳をし、6年前から日本の朝鮮侵略の研究に没頭している。大学時代に出会って師弟の縁を結んだ民俗学者の故シム・ウソン氏の紹介で、植民地期に出た朝鮮民俗や巫俗をテーマとした本を主に翻訳し、行政安全部や労働部などの政府関連の翻訳の仕事も多く担ったという。「日本語翻訳の分野で収入が上位1%という声も聞きました。25年以上翻訳だけで暮らしてきたので、今後の人生は新たな使命のために生きたかったんです」
『一線を越えた日本スパイ隊』は、明治元年以降、日本の朝鮮偵察がいかに執拗かつ体系的だったのかを、1875年の雲揚号事件や1882年の壬午軍乱など、朝鮮と日本の間の大きな政治的変動に沿って示す。日本軍国主義の中核機関である天皇直属の参謀本部は、朝鮮に派遣した諜報員に偵察地域を具体的に指定し、その報告書をもとに朝鮮八道の地理と軍備態勢などの情報を完成していった。「参謀本部は朝鮮への武力侵略の6年前、1888年にすでに朝鮮八道の地理書である「朝鮮地誌略(8巻)を完成させます。この本は日本でも『決して知られてはならない本』として、太平洋戦争終結後も素材が知られていないほど極秘裏に管理されました」。著者はさらに、「1894年、第2次蜂起を起こした東学農民軍が日本軍に押され山場のたびに殺されていったのは、日本がスパイ活動によって朝鮮のすべての情報を握っていたため」とも述べた。
25年以上日本語翻訳家として暮らし
過去6年間、「日本の朝鮮侵略」を研究
当時の日本の軍部・外交資料に基づいて書いた
3年前の初著『1894 日本朝鮮侵略』に続き
最近『一線を越えた日本スパイ隊』を発行
「日本の文化財略奪も調べる」
パクさんは著書で「日本のスパイ行為の執拗さと狡猾さ」を示す例をいくつか挙げている。「参謀本部を実質的に率いて朝鮮偵察も指揮した人が川上操六参謀次長です。彼もやはり1893年に名前を変え身分も技師に偽装して護照の発行を受け、極秘裏に朝鮮を偵察し、高宗にまで会いました。1877年、代理公使に任命されて朝鮮に来た花房義質は、珍島(チンド)付近に船を停泊させ、3日間にわたって小さな汽船で懸命に木浦(モクポ)がどこにあるのか探します。朝鮮政府には江華島(カンファド)条約による開港場を探していると言っていますが、実際は細かく朝鮮偵察をしたのです。1892年には戦争に備える目的で朝鮮に鉄道を敷くために、鉄道予定線を密かに測量しようと、朝鮮に偽りの申告までしました。『米国の博物館に贈る鳥を狩るために踏査団を派遣する』と言って」
カン・ソンマン先任記者
ハンギョレ新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/a3e6a880d2e1094b64a9bc6d2626c36aeb84dbba