あわせて読みたい
早稲田大OBの蘆塚泰さん 箱根駅伝当日変更で決意、現在は米国公認会計士で世界へ!
https://4years.asahi.com/article/14698980
(前略)
■早稲田大学で箱根路へ挑戦!
4月、早稲田大学に入学し、競走部から入部許可もおりて、大学での競技生活がスタートしました。ただ、大学でのレベルの高さにとにかく驚いたそうです。「高校でも練習量や質に驚きましたが、高校から大学ではさらに違いましたね」。というのも、蘆塚さんの同級生には、のちに5000mと10000mで北京オリンピック日本代表となる竹澤健介さん、インターハイ1500m日本人トップの高橋和也さん、インターハイ3000mSC優勝の阿久津圭司さんとそうそうたる顔ぶれ。
「最初は同級生を見るだけで満足するくらいでした(笑)。この選手たちと同じグラウンドにいるというだけで興奮でした」。そんな環境でスタートした学生生活でしたが、入学時から3年生の頃まではついていくのも厳しい日々が続きました。「自分の容量をオーバーする練習でしたね。30kmの練習では帰りは歩いて帰ったり、途中で離れてしまったりしていました。基礎体力の部分など、だいぶ弱かったと思いますね。ずっとBチームでした」
4年生も故障でスタート。6月、7月に走れるようになってきて最上級生として夏合宿に挑む時、4年目の役割について再度考えたそうです。
「早稲田大学では代々、下のチームから上のチームに上がるような背中を見せるという先輩がいました。それで箱根を走る先輩もいましたし、後輩を叱咤激励(しったげきれい)して引っ張る役目の4年生もいました。自分はどういう役目の4年目になるべきかをもう一度考えたんです。箱根を目指すのを諦めたくなかったですし、Bチームの選手がAチームの選手に勝つことを『Bチームの逆襲』と謳(うた)って、とにかく挑戦してやってみようと思いました」
当時、Bチームは相楽豊コーチ(現・チーム戦略アドバイザー)が指導されていました。「相楽コーチには、ランナーとしてだけでなく、人としても鍛えていただき、そのご指導が今にも生きていると感じています」。育成力に定評のある相楽コーチの指導の下、蘆塚さんも必死で4年生としてBチームを鼓舞しながら走り続けました。
夏合宿以降も必死で走り続け、11月の上尾ハーフでは1時間04分37秒の自己ベストをマーク。11月末から始まる早稲田大学恒例の集中練習では初めて上のチームに合流し、質の高い練習をこなしていきました。
「箱根のメンバーに入るには練習で失敗できないですし、どの練習も気を張ったような状態でしたね」。毎回の練習が試合のような緊張感で臨み、ついに箱根駅伝のエントリーメンバーに登録されました。
16人のメンバーに入ってからも最後の最後まで可能性を信じ、練習に挑み続けた結果、12月29日の区間エントリーでは7区に登録されました。
ただ、1月2日に相楽コーチから「明日、八木で行くから」と告げられたそうです。当時、1年生だった八木勇樹さんと交代することになりました。「『何があるか分からないから準備はしておいて』と言われました。致し方ないと思う反面、箱根を走れずに終わるんだなという悲しさと複雑な思いでしたね」。箱根駅伝当日は選手と同じ宿舎に泊まり、復路の選手の応援にまわりました。この年(第85回大会)は東洋大学と早稲田大学が総合優勝争い。結果的には東洋大学が総合優勝し、早稲田大学は41秒差で総合2位となりました。
「総合2位の悔しさと自分が走れなかった悔しさとダブルできた感じですね」。ただ、箱根駅伝が終わって閉会式に向かうバスの中、蘆塚さんはある決意をしたのでした。「箱根が2位だったことも、箱根を走れなかったことも、もう(過去のことは)変わりません。この経験がその後の人生に生きたよねっていう人生を過ごしたいと思ったんです。大学生活を振り返ると、あの時こうしておけば良かったと思うことがあったので、大学を卒業してからは、成功してもしなくても、悔いのない選択を悔いのない1日の送り方をして、そういう人生にしていこうと思ったんです」。最後の最後まで挑み続けて、それでも僅(わず)かに届かなかった箱根路。その経験があったからこそ、社会人になってさらに蘆塚さんは後悔のない挑戦を続けていくことになります。
■米国公認会計士として世界へ羽ばたく
大学卒業後、社会人になってからも大学時代の同期を中心としてチームを作り、一緒に市民マラソン大会にも出場。「大学の同期の三輪(真之さん)とお互いの赴任地がたまたま石川県で同じだったので、Stylishという石川県の陸上チームでよく一緒に走っていました。Stylishには当時、他にも法政大学で箱根駅伝を走った齋藤(雄太郎さん)やStylish設立者の1人である金丸(聡寛さん)といった選手がいて、土曜日午前中に練習して、夜飲みに行くということを繰り返していました。
※以下リンク先で