【嘘の韓国食文化】 「アイスクリームケーキ」発明国、Kデザートの歴史…タンフル、日本皇室の餅、朝鮮飴など

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【嘘の韓国食文化】 「アイスクリームケーキ」発明国、Kデザートの歴史…タンフル、日本皇室の餅、朝鮮飴など

1: LingLing ★ 2024/10/12(土) 23:57:17.64 ID:wm/yHofK
「アイスクリームケーキ」発明国、Kデザートの歴史

一国の豊かさの尺度は「デザートの多様性」が見せてくれるという話がある。デザートは生存に欠かせないぜいたく品だ。これと共に多様な食糧資源を多く消費し、手間が多くかかる。このため、デザートがどれほど発達したかは国家の富、交易量、発展した労働人力、そして十分な消費階層があることを全て見せてくれる文化的尺度だ。

わが国で後食(※飲食の締めに食べるもの)の記録は、間接的ではあるが最初に現れたのが三国時代だった。当時、蜂蜜は上流層が主に好む高価なデザートであり、果物は全階層が好むデザートだった。甘味のない後食であるシルトック(蒸し餅)とスンニュン(おこげ湯)も貴重なデザートだった。三国時代だけでも、農業が発達できずに米は貴重な穀物だったので、平民以下の階層は粟と粗い雑穀、山菜中心の粥を主に食べた。貴族と王だけが、米を粉にして甑で蒸した餅とご飯を食べることができた。釜に粥ではなく、ご飯を大量に炊いてから得られるヌルンジ(おこげ)、そしてヌルンジに水を注いで沸かしたスンニュン(おこげ湯)は、貴重な後食扱いを受けた。

元日王である裕仁が「個人的に日本の王家は百済から由来したことで合っている」と考えているとし、日本皇室がいまでも維持している韓国式のトック(餅)の製造法を紹介したことがある。つまり、日本の餅は普通、臼で米やもち米の飯をついて作る方式だが、ただ皇室でのみ韓国のように米粉を出して甑で蒸した餅を食べるということだ。また、食事の後食として、必ずスンニュン(おこげ湯)を食べる慣習もあるとし、これもやはり韓国から渡ってきた風習だと話したことがある。

東洋では、菓子はもともと果物の代替品だった。果物を意味するクァは「果」と異体字である「菓」、二つの漢字を使用した。地中海とヨーロッパ文明では、祭祀は供物になる家畜の中で人が食べることができない油と骨を燃やして、その香りを神に歆饗することだったとすれば、東洋の祭祀は最も良い酒とつまみ、または茶と果物を捧げる行為だった。しかし、祭祀と記念日が常に果物が豊富な季節にあるとはいえないので、果物の代替品として菓子を作り、その中で異体字である「菓」を初めから菓子という意味で呼ぶようになった。また唐国以降、三国時代末から韓国に茶文化が流入してきて、ほろ苦い茶と合う甘い菓子類と果物類の需要が生まれることになった。

高麗時代には、韓国デザート文化に一大激変が起きた。仏教が発展して、茶文化が隆盛しながら茶菓が発展したのだ。同時に2つの革命的なことが起こった。一つは飴と水飴の導入だ。そしてもう一つは、国際交易を通じた食文化の変化だった。

○軍用食糧「タンフル」が今は子どもたちの間食

高麗時代は、三国時代に比べて農業技術が発達し、米と主要穀物の生産量が大きく増えた。同時に中国から、麦の芽を乾かして穀物を糖化する酵素として使われる麦芽が伝来し、米を麦芽で糖化した飲料であるシッケ、シッケを煮詰めた水飴、水飴をさらに煮詰めて固めた飴を使うようになった。同時に高麗時代初中盤には、シルクロードを通じた国際貿易が維持されると、中央アジアのマンドゥ(餃子)やホットク系列の間食類が入ってきて、遼国の保存食糧であるタンフルも、この時期に高麗で食べたと推定する。タンフルは、果物と野菜を貴重にしていた内陸遊牧民たちが、干した果物を飴で覆って長期保存しながらビタミン補充用に持っていた保存食から由来した。今では子どもたちが好む間食になったが、1000年前にはわが国を侵略した遊牧民族の軍用食だったという事実は、面白いアイロニーではないか。また、高麗末期にはモンゴル帝国を通じて、高麗の食文化が中国で流行したり、中国とモンゴルの食文化が高麗に広がり、菓子文化が発達した。(省略…)

朝鮮中期の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時、韓国の飴製造技法は日本に渡っていくと、日本で「チョスンアメ(朝鮮式 飴)」と呼ばれる飴と水飴を使う製菓法が生まれた。

ソース 週刊朝鮮(韓国語)
https://n.news.naver.com/article/053/0000046040


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