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【教育】「慶應なんてやめて小樽高商にしとけ」国立至上主義の教師、まさかの100年前から存在していた
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(前略)
明治以来、立身出世や華やかな文化につながる「上京」という行為が多くの若者を熱狂させたことはよく指摘されている。鈴木にせよ、都会のほうがベターだと思っていることは間違いない。だがそれにしても、東京にたくさんある私大は、あくまで次善以下の進路としてしか認識されていないのであった。
■慶應に行くのを止めようとする国立至上主義の教師
鈴木の投書は、私大関係者を強く刺激した。最初に反応したのは、福澤諭吉を創設者と仰ぐ慶應義塾大学の学生、松村金助である。昭和期に日本・満洲・南洋経済ブロックを提唱する経済記者の松村金助と同一人物と思われる。青森中学を卒業した松村は、鈴木と似た発想を持つ各地の中学校長が進路指導をゆがめ、官立崇拝を助長している現状を告発した。
青森中学時代、校長に呼び出されて受験校を尋ねられた松村は、慶應の理財科(現・経済学部)を志望していることを伝えた。すると校長は、青森中学が官立学校進学実績で東北3位、全国19位の地位にあり、成績良好の松村は官立高等商業学校である小樽高商(現・小樽商科大学)に無試験入学できるので、是非そうすべきと諭した。つまり慶應に進学するのを阻止しようとしたのである。
松村はこの言葉を聞き、長年尊敬していた校長が自分の栄誉のために進学実績を気にする「利己主義者」だったことに気づいた。「恐らく大多数の中学校長は彼の如くなるべし」と松村はいう。松村は、教授や教育内容で慶應を選んだ。だが、「官立」至上主義に冒された中学教師からすればそんなことはどうでもよく、「官立」進学実績だけが問題なのである。
こういった現象は、現代の地方公立進学校の進路指導でもよく指摘される。やや古い話だが、1990年代初頭、東北地方のある進学校の文系クラスでは「東大がダメなら東北大の法学部、法学部がダメなら経済学部、次に文学部、教育学部、それもダメなら新潟大の法学部、経済学部、人文学部……」といった具合に、どの大学でなにを学ぶかをほぼ度外視した進路指導が時に行われていた。とにかく手が届く国立大学に合格させる、という発想である。そもそも私大は進路指導の対象ですらなかった。
江戸時代に起源を持つ私立 明治になってからできた国立
松村のほかにも、官学崇拝が社会の未開さに起因することを説く投書者(明大生など)や、官学私学を問わず「教育」を受ける行為そのものを疑問視し、学校の本領は社会から隔絶された環境で自由を享受することだ、と訴える投書者(早大生)もいた。
大正期には出身校で人間の格付けをすることや、上からの一方的な「教育」をありがたがることは時代錯誤だという認識がある程度広がりを見せていた。にもかかわらず、この「学生界」という投書欄には、帝大・高校側の優越感や、私大生の劣等感が以後も時折噴出した。
私立蔑視と官立(国立)崇拝は、明治から現在に続く根強さを持っている。しかし、教育学者の天野郁夫が「もともとわが国は、明治維新の以前から私学の国であった」というように、近代以前に私塾すなわち私立学校の果たした役割は大きかった。
(中略)
夢物語にすぎないが、もし政府が官立学校を作らずに私学を育成する方針を選んでいたとしたら、特色ある「同人社大学」「仏学塾大学」などが続々誕生し、慶應などと覇を競う別の世界が生まれたかもしれない。少なくとも、後世の私立学校生が官学との格差に煩悶する事態にはならなかっただろう。官学が存在しなければ私学差別は発生しないからである。
ところが、同人社も仏学塾も明治20年代にはその歴史を閉じ、いまや跡形もない。私塾起源の私学は、近代日本の学問と研究の王座に君臨することなく、東大を頂点とする官学がその地位を占め続けた。
1871年設置の文部省よりも前に創設され、大きなプレゼンスを誇った慶應義塾は、私学の衰退、官学の隆盛を実体験しながら歴史を刻んでいくことになる。
慶應こそ東大の覇権確立の第1目撃者であり、第1被害者でもあった。
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