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【韓国】「敗戦」を「終戦」という日本、敗者はないので戦犯もない?恥ずかしくはないのか?
明らかに日本は「第2次世界大戦」の太平洋戦争(1941.12.7~1945.9.2)で敗北した敗戦国なのに日本で敗戦という言葉は聞けなかった。私たちと日本の表現が違うのだろうか?同じ漢字式意味を共有しているのにどういう違いがあるのだろう?
敗戦と終戦の概念は何が違うのか?私たちの国民は近隣諸国で広がる嫌韓(嫌恨、訳注:漢字でカッコ内に「嫌恨」と書かれている。韓と恨がともにハンであるための間違いか)と彼らの思考に当惑し理解するのは難しい。私は日本という国が戦争の敗北に対する羞恥心と恥ずかしさのために敗戦という用語を使わないと考えていた。
過去、壬辰倭乱(1592~1599)でも明らかに彼らは敗北したのに敗戦と表現しなかった。白井聡の「永続敗戦論(2013)」で敗戦と終戦の概念設定について日帝強制占領期、内鮮一体を前面に出して一つの臣民と規定しているのに、実質的には植民支配国と被支配国で日本国民は「一等国民」、朝鮮人は「二等国民」に扱われていた。したがって日本の敗戦で大韓民国は独立し、両国は対等な地位と平等な国民の地位を持つようになる。
ところが相手国に対する尊重と国際的地位とは関係無く、継続的な国家卑下と嫌韓思想が広まったのは、まだ日本政府と日本極右主義者が「敗戦」を認めないからという。彼らにとって敗戦は対等な国家と平等に対する認定を拒否する行為だ。それで彼らは「終戦」という用語に執着する。
これが国家で、人類愛がある者の正常な思考か?という疑問を感じる。敗戦がない歴史は日本帝国主義が継続する論理の土台になる。したがって日本政府と極右日本人たちは現在の韓国と韓国人を植民地被支配国であり、被植民地国民と認識しているわけだ。そのため「二等臣民」の差別は当然で、これらの挑戦は許せない行為である。したがって嫌韓(嫌恨)は自然なのだ。「これが論理か?」私たちの思考ではとうてい理解できない詭弁だ。
(中略:米国がアジア-太平洋での忠実な政府を必要とした)
2021年でも歴史を歪曲する歴史修正主義で綴られた日本政府と極右の人々の否定的な対韓国観と皮肉そして嫌韓はもはや日本のトレンドであり文化に位置している。このような韓日間の関係改善は容易でない問題だ。
しかし私たち国民は甘くない。私たち国民が戦争の廃虚から最貧国のすさまじさを乗り越え、支配国の日本を追い越す歴史を作っていくことに日本人たちは怒る。購買力GDP、国防、外交、先端産業、文化などの社会全般にわたって対等だったり先んじている。
貧しい島国、矮小な日本人は本来、劣等感とコンプレックスが強い。帝国主義覇権で優れた「アジアの白人」という自負心で綴られた彼らの自尊心に深い傷と危機意識を持つことになったのだ。日帝強制占領期間と韓国戦争後、韓国は産業と文化などほとんどあらゆる分野で日本に従属的関係を維持してきたのは事実だ。そのような被植民地国家での「強制徴用判決」と「NO JAPAN運動」は彼らにとって驚天動地だろう。
今、日本で繰り広げられる言葉も多く仮面も多い2020(21)年第32回東京オリンピック(7.23 ~ 8.8)と第16回パラリンピック(8.24 ~ 9.5)が開かれる敗戦日である8月15日に前後して日本の復興を再び示そうとありったけの力をふりしぼっている。
日本との愛憎は彼らの思考が変わらない限り容易ではないだろう。しかし不可能でもない。日本人は本来、劣等感を有している国民で、私たち国民が優秀な格差で世界史の主役になる時、彼らはあえて私たちをばかにしたり皮肉ることはできないだろう。
戦争は終わって傷はそのままだ。勝者はあって敗者はない。だから戦犯もない?恥ずかしくはないのか?彼らはどのように人類社会とともに歴史を作り出すことができるのだろうか?
ニュース・パゴ(韓国語)
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