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【また嘘を】韓国国技テコンドー、歴史を正しく知る。古代はテッキョン、手搏と呼ばれた武芸修練の基礎…日帝に禁止されたことも
[ファイトタイムス]
(省略…)我が国固有の伝統武芸を基礎に創始した国際公認スポーツであるテコンドー。
テコンドーは1988年、大韓民国で開かれたソウルオリンピックで、示範種目として初めてオリンピックの舞台で披露した。さらに、本稿では大韓民国の国技「テコンドー」の歴史を紹介する。
テコンドーの淵源
韓半島と、中国の東方にある満州周辺の部族国家では、迎鼓、舞天、東盟などと呼ばれた祭祀で天を崇める歌舞、遊戯娯楽を通じて部族団結と多くの収穫を祈願した。このような祭りの中の歌舞、遊戯は自然に競争意識を持つようになって、古代ギリシア人の神殿祭礼行喪であるオリンピア祭天のように競技的な性格を持つようになった。部族の防御と勢力拡大のためには、戦闘能力向上を図らなければならず、自然に昇天祭礼の身体活動は闘技を中心に競技化して、発達するようになった。テコンドーはこのような中、韓民族固有の闘技の形として生成された。
古代
いくつかの部族国家が次第に吸収統合されて、韓民族は高句麗(BC37)、百済(BC18)、新羅(BC57)の3ヶ国に分かれて、中国の東北地方と韓半島を支配した。テッキョン、手搏(スバク)と呼ばれテコンドー武芸修練の基礎として当時に広く行われて、高句麗は「仙輩」、新羅は「花郎」という青少年集団教育制度を創案して、彼らは山河を周遊しながら武芸修練を行った。古代のテコンドーに関する史料には古墳壁画、仏像、書籍の記録などが残っている。古墳壁画の一つに、AD209~AD427年当時の高句麗の首都であった丸都城の近くにあり、現在は満州通化省集安県通溝にある『舞踊塚玄室壁画(>>>2)』がある。この壁画は二人が一定の間隔を置いて向き合って、足で相手を攻撃するような姿勢を見せており、今日におけるテコンドーの競技動作と類似している。 また、新羅文化芸術の精華と称する『石窟庵の金剛力士像(>>>2)』や、『芬皇寺9層石塔の仁王像(>>3)』などの体はテコンドーのプムを見せている。特に、国家の滅亡で史料が断絶した百済の場合は、『日本書紀』に百済の大佐平の智積を日本の朝廷で招待して、日本の健児たちと相撲をしたという記録が残っていて、当時、日本人に先進文化圏だった百済人たちが素手の武芸を指導したことが分かる。
(「中世」、「近世」省略…>>2以降に)
現代
国運衰退に伴って、武人たちの没落は軍隊の解体などで加速化して、日帝は強圧的な武力侵略で韓国を植民地にした。日帝の韓民族弾圧が強化され始めると、抗争の手段として使用される民衆たちの武芸修練は禁止された。しかし、独立軍、光復軍など抗日組織の心身訓練方法や、個人的な武芸伝承意欲によって、テコンドー(テッキョン)の命脈は微々たるものだが、民族の息吹で受け継がれた。8.15解放後、忘れられた私たちのテコンドーを取り戻そうという志のある人が集まって、行進を養成して、次第に私たちのルーツを求めるようになって、ついに1961年9月16日に大韓テコンドー協会が創設されて、1963年2月23日には大韓体育会に27番目の加盟団体として加入、1963年10月9日には全州で開催された第44回全国体育大会にテコンドーが公式競技として初めて参加することになった。今日、人類のスポーツの祭典であるオリンピックからも脚光を浴びているテコンドー競技は、25年前の1963年、全国体育大会がきっかけに、競技規則と保護用具が飛躍的に発展し始めた。
出典:大韓テコンドー協会
FIGHT TIMES(韓国語)
http://www.ftimes.kr/news/articleView.html?idxno=11708