大阪がかつて「日本一の街」だったことをご存じだろうか。
1925年、大阪市の人口は市域の拡大によって211万人を超え、関東大震災の影響で人口が減っていた東京市を抜き去った。当時の大阪市は工業出荷額も日本一、面積も日本最大。この街は、「大大阪」と評されるまでになった。
江戸時代に「天下の台所」と呼ばれた大阪は、多くの企業の創業の地でもある。たとえば、住友商事、伊藤忠商事、丸紅、武田薬品工業、サントリー、日本生命、朝日新聞、パナソニックなどが大阪発祥だ(社名はすべて現在のもの。以下同)。
しかし「日本一の街」だったというこの輝かしい歴史は、現在の大阪にとって厄介な「呪縛」となっているかもしれない。
立命館大学教授で『大阪―都市の記憶を掘り起こす』の著者、人文地理学者の加藤政洋氏が大阪の歴史を解説する。
「かつて大阪は『西日本の中心』として栄華を誇りました。とくに工業化が進んだ大正期から昭和初期にかけては、中国・四国地方、沖縄からも労働者が集まり、大正区には沖縄出身者のコミュニティができたほどです。大阪はエネルギーをみなぎらせ、イギリスの工業都市になぞらえて『東洋のマンチェスター』と呼ばれました。戦後の高度経済成長期にもまだその活気はあったようで、当時は大阪が『東京とは独立した経済圏』を持っていたと考えられます」
無謀すぎる開発
戦後の大阪では、多くの名経営者も活躍する。パナソニックの松下幸之助、シャープの早川徳次、ダイエーの中内功、サントリーの佐治敬三といった面々だ。しかし、徐々に状況が変わり始める。
「新聞記事を読むと、’70年の大阪万博の頃までは熱気があったことが伝わってきます。しかし、’70年代以降に新幹線や高速道路などの交通網がそれまで以上に発達し、都市同士の結びつきが強くなると、東京が企業の本社機能を吸収するなど、東京一極集中が進みます。さらに、グローバル化のなかで工場は安い労働力を求めて海外に出て行き、大阪経済の地盤沈下が進みます」
だが、大阪は衰退にあらがうかのように、無謀とも思えるような開発に踏み出す。なにより象徴的なのが、大阪湾「ベイエリア」の開発である。開発の歴史について加藤氏が続ける。
「’80年代、大阪市は『テクノポート大阪』という都市計画を掲げます。かつては工場で栄えていた湾岸地域や埋め立て地を開発し、そこに『新都心』を作ろうとしたのです。バブルの勢いもあってその一環として建設されたのが、アジア太平洋トレードセンター(ATC)や大阪ワールドトレードセンター(WTC)です。前者は’94年に1400億円超の開発費で、後者は’95年に1100億円超の開発費で竣工されましたが、結局ほとんどテナントが入らず、最終的に府の庁舎や市の部局などが入ったことはよく知られています。ほかにも同計画では多くの開発が失敗、大阪経済にとってむしろ重荷になってしまったかもしれません」
こうした失敗も、振り返ってみれば仕方がないものに見える。なぜなら、これらの開発は、都市の「文脈」や「歴史」をほとんど無視して、いきなり巨大な建物を建設する「インプラント型(埋め込み型)」の開発だったからだ。衰退する都市にドーピングをするかのように無理やりに建物を造る―その開発手法からは、かつての栄光から転落することへの焦燥が垣間見えはしないか。
「湾岸の開発において興味深いのは、ランドマーク性の高い巨大で高層の建物をつくろうとしている点です。大阪には20世紀初頭に建てられた通天閣というシンボルタワーがありますが、その行き着く先がこれらの塔の数々だったのかもしれません。塔は権力の象徴です。そこからは、『一番がいい』といった無意識が見え隠れするように思います」(加藤氏)