2024年1月21日 05時05分 (1月21日 05時05分更新)
(略)=18日午後、石川県珠洲市飯田町の市立飯田小で(田中久雄撮影)
能登半島地震の発生から間もなく3週間。自身も被災しながら、避難所の運営を担う住民の疲労がピークに達している。道路の寸断などによりボランティアの受け入れも進まず、「地元だけでは限界」と悲鳴が上がっている。
17日午前、石川県珠洲(すず)市で避難所となっている市立飯田小学校。知人の安否確認に来た男性に「その人は最初からここにはいなかったですね」と答えたのは、運営スタッフの清水美穂さん(46)。10年ほど公民館主事を務めており、避難する周辺住民のほとんどが顔見知りだ。
元日午後の強い揺れの直後、同校には周辺の850人が集まり、清水さんも父豊さん(70)、長女円佳(まどか)さん(11)と身を寄せた。
同校は市の指定避難所として、地区の自主防災組織の計画に沿い、住民らが運営を担う。清水さんは、町内会役員らと計4人で運営スタッフとなった。スタッフには市職員も含まれる予定だったが、担当者が駆け付けられなかった。
仕事は山ほどあった。避難者名簿の作成や食事の分配、家族と連絡が取れない人たちへの対応、支援団体との調整、物資や食料の保管管理…。最初の2日間は、詰め所だった職員室で机に突っ伏して寝た。水が流れないトイレに汚物やペーパーが積み上がり、手を突っ込んで汚物を取り出したこともあった。
1週間がたったころの夕方。職員室の椅子に座ると、涙が止まらなくなった。「悲しいわけでも、疲れを感じていたわけでもないんだけど…」。1泊だけ、大きな被害を免れた自宅で寝たが、残りの日は「他のスタッフが困るだろうな」と避難所にとどまる。
清水さんと円佳さんが寝泊まりするのは1階の保健室。(略)