「笑いのつぼ」を勘違いした「いじめ芸」の終焉
2024.1.15(月)伊東 乾
前回稿も多くの読者に読んでいただき、改めてお礼を最初に記したいと思います。
私はタレントのスキャンダルを書きたてたいわけではなく、このような一種の社会的な「脱臼」を期に、日頃見慣れて感覚がマヒしている、実は異常な状態に、警鐘を鳴らすことを一番大切に思っています。
1月12日付JBpress記事「叩かなければ笑い取れないのか、芸人の“どつき芸”、もう終わりにしないか」は、放送・構成作家の方が書かれた原稿とのことで、私の視点と一致する面がいくつもあるように思われました。
お笑いコンビ「錦鯉」というものをそもそもよく知らない私は、剃り上げたアタマをポンと叩く「芸」が幼稚園児にバカ受けして困る・・・という、その「芸」自体を見たことがないのですが、「どつき」に注目して幼稚な笑いに疑義を呈する姿勢は大いに共鳴しました。
さらに放送倫理・番組向上機構(BPO)による〈「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」に関する見解〉(2022年4月)の引用も、重要な点を衝いていると思います。
BPOの見解を一部、再引用してみましょう。
「本当に苦しそうな様子をスタジオで笑っていることが不快」「出演者たちが自分たちの身内でパワハラ的なことを楽しんでいるように見える」など、不快感を示す意見が一定数寄せられている。
「今なおテレビが公共性を有し放送されることは、権威を伴って視聴者に受け容れられているといってよい社会状況のなかで、暴力シーンや痛みを伴うことを笑いの対象とする演出について番組制作者に引き続いて検討を要請するために、この見解を示すことにした」
しかし「暴力はいけないから、そういう表現はやめよう」という、小学校の学級委員、優等生的なリーダーシップで「表現の自由」が何とかなるような世界ではありません。
「どつき」ないしは「いじめ」が視聴率を上昇させ続けている限り、数字がすべての商売ですから、懲りずに「どつく」「いじめる」で、見かけ上の業績を取り繕う松本人志のような商法は根絶できません。
今回は、上方演芸の原点にさかのぼって「正しいドツキ」あるいは表現の自由に照らして「悪くない暴力表現」の意味合いを考えて見たいと思います。