【韓国】 文化財庁が「倭系」と表現した百済甲冑…千字文など、我々が文明をほぼ一方的に日本に伝達したから百済が元祖では?

【韓国】 文化財庁が「倭系」と表現した百済甲冑…千字文など、我々が文明をほぼ一方的に日本に伝達したから百済が元祖では?

【韓国】 文化財庁が「倭系」と表現した百済甲冑…千字文など、我々が文明をほぼ一方的に日本に伝達したから百済が元祖では?

1: LingLing ★ 2021/06/28(月) 19:15:12.59 ID:CAP_USER
5世紀、百済甲冑が千字文伝来されたばかりの日本系統?
・文化財庁国立羅州文化財研究所の甲冑を再現後、
帯金系板甲・衝角附冑の兜、「倭系甲冑」と表現
・史劇の日本のものと似て「日本の甲冑の元祖も百済?」

5世紀百済南部地域甲冑再現
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5世紀百済南部地域、軍士の甲冑
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1600年前、百済南部勢力は近隣の伽耶、新羅、倭などと競争または協力して勢力拡張を図ったが、当時、兵士たちが着ていた鎧と兜が発見されて、文化財庁国立羅州文化財研究所が再現を試みた。

6月27日、羅州文化財研究所(所長イ・ウンソク)によると、5世紀の甲冑である帯金系板甲は、横長の鉄板と三角形状のかたちの鉄板に穴を開け、鹿の皮ひもで連結した。

三角板革綴も三角形の鉄板を皮ひもで繋いだ形の鎧であり、衝角附冑(三角板革綴衝角附, 兜)は前面が前方に突き出た鳥の嘴の形をしていた。

文化財庁は報道資料を通じて、「倭系(日本系)甲冑(甲玉と兜)」という表現を使った。

百済が、日本に千字文を教えてあげた時期は4世紀後半で、統治構造などを定立してあげた時期は5世紀、仏教を教えてあげた時期は6世紀という点などを総合的に考慮すれば、百済が日本の文物を逆輸入したという感じを与える「日本系鎧と兜」という表現が一見、歴史的脈絡と食い違う感じを受ける。

これについて、国立羅州文化財研究所側は、「高興野幕古墳から発見された三角形鉄板甲冑遺物の製作時期でいうと、日本国内で発掘された似たような遺物よりも、時期的に遅いと思われる。副葬品も日本で発見されたものと類似したものがあった。伽耶は、最初から別の形の鎧(縦長板甲)を使ったことが分かる。5世紀は、南部地方と日本間の交流が活発だった時期だった」と答えた。

三角形鉄板の鎧と衝角附冑の兜を、誰が先に開発して常用化して、どのように伝えられたかは、野幕古墳の鎧発掘の件だけでは確認できない。

今回再現した高興一帯の鎧と兜の格好は、最近の史劇で見る日本式と似ているのは事実だ。戦争の武器体系は、国家の体系が定立されて以降、高度化するものであるが、当時、我々が文明をほぼ一方的に日本に伝達してあげた点からすると、史劇に出てくる日本軍の鎧兜が、ひょっとして元来は百済のものではないかという気もする。

もちろん、当時両国の友好関係を考慮すれば、日本が自生力を持って、後に開発した多様な文物を百済南部地域の戸長と将兵が輸入して使用した可能性もある。当時、二つの共同体が兄弟のような同盟だったなら、文物開発の先後は何ら意味がなかったのかもしれない。

ヘラルド経済(韓国語)
https://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=016&aid=0001853461


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