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■生きたい
2022年9月。病院に来てから6時間が経過。まだ鎮痛剤は届かず、“ステージ4”で黄疸が出た母親は無言で痛みに耐えている。
そこへ若い医師が来て、病院到着直後に採血した結果が出たと言う。その結果から判断するに、「黄疸が出たのは、肝臓につながる胆管のいくつかを腫瘍が塞いでいるため。以前受けた、ふさがれた胆管にステントを入れる手術をすれば、ふさがりを解消できると思う。ただ、転移している腫瘍が大きくなるスピードが早いため、次々に別の胆管がふさがったら、体力的にも手術的にも、すべてにやるのは難しい」とのこと。
最後に若い医師はこう言った。
「やってもやらなくても正直なところ同じと思われますが、手術されますか?」
春日さんが「手術をやってもやらなくても変わらないんですか?」とたずねると、「やったとしても他の胆管が詰まったら、すべてにその手術をするのは難しいですから……」と若い医師。
すると母親は、「やらない。痛いのもういい」と首を振った。
その瞬間、年配の医師が現れ、「どっちになった?」と若い医師に声をかける。若い医師が「手術は希望しないそうです」と言うと、「手術は希望しないということで良いですね?」と年配医師。
母親は無言でうなずく。それを見た年配医師は「ではそういうことで。もう処置はありません」と言い、立ち去ろうとする。
思わず春日さんと母親は、「え?」とそろって声を上げていた。年配医師は不思議そうな顔をして「手術を希望されないのであれば、緩和ケアに……」と言う。
冷淡な言い草に春日さんは、「そこまで聞いてません! 命に関わるなんて!」と大きな声になる。
若い医師は、「いや……話したつもりですが」と慌てたが、母親が「聞いてない」と声を振り絞る。年配医師は、これみよがしに大きなため息をつき「血液結果の結果を見る限り、肝不全とほぼ同等の数値になってるんですよ。このまま手術をしなければ、黄疸が強くなるか、肝臓が破裂して命に関わる可能性がとても高いです。そういう病状を踏まえたうえで、やる? やらない? どっちにしますか? って聞いてるんで」
と投げやりな言い方をする。
春日さんは、「これでも医者なの?」と絶句。しかし母親は「やる!」とはっきりした声で言った。
「まるで、『今夜はイタリアンにする? 和食にする?』というノリで命に関わる決断を迫られました。医師として、患者の気持ちに寄り添うという姿勢が明らかに欠けていたと思います。そんな中、母が発した力強い一言に、『生きたい』という意志を感じました」
「え? 先ほど手術はしないと決めませんでした?」と年配医師が言い、すかさず春日さんが「命に関わると聞いていなかったので……ね?」と母親に確認。母親はうなずいた。
「そうですか。では手術を希望されるということで。早速今夜手術することになると思います」と年配医師。
春日さんは間髪入れず「で、痛み止めはまだですか? いつも処方してもらっている鎮痛剤。朝からお願いしてるのにまだ何もしてもらえません。まだですか?」
「オキノームね。いつものじゃなきゃだめなの? 粉がいいですか?」
春日さんは、医師が何を意図して質問しているのか分からなかった。すると年配医師は「点滴だったらすぐ出るの。効き目は同じ」と一言。
「痛みがおさまるなら何でもいいです。朝からずっと痛いって言ってるんですよ。早くしていただける方で」
「じゃ、点滴ね。お母さんはこのあと入院棟に移ります。文字を書くのが難しいようなので、これに署名してください」
差し出された用紙を見ると、「心肺蘇生の同意書」と書かれている。途端に春日さんは「あぁ、お母さん死んじゃうんだ。もうだめなんだな」と思い、泣き崩れた。
■家に帰してください
「手術結果は電話しません。でも、何かあったらすぐに連絡します」と看護師から言われ、春日さんはスマホに目をやると「時限爆弾みたいだな」と思った。
娘と寝室に行こうとしていたその日の20時前、スマホが鳴った。夫も父親も同じ部屋にいたため「お父さんも聞いて!」と春日さんは言い、スピーカーにする。母親の手術を担当した医師からだった。
「お母様の手術ですが、無事に終わりました。ですが、想像していたよりも肝臓の腫瘍が大きくなっていて、いつ何があってもおかしくない状況です。また今夜黄疸などの症状が出た場合は、手術を希望されますか? ご意向を伺いたくてお電話をしました」
春日さんは、まだ母親が生きているということに安堵(あんど)したが、突然投げかけられた質問に戸惑いもした。
「今夜また手術ですか? 母は何と言っていますか? 母の希望をかなえてあげたいんですが」
「わかりました。ではそのような状況になったら、お母様にまず伺います。ですが、娘さんにもどうされるかお伺いしておきたいです。あ、今即答しなくても大丈夫ですよ。考えてご連絡いただければ」
「『また、母の命に関わる選択を迫られている』……と思いました。こんなに重い選択を何度も求められる日は、生涯でもこの日くらいではないかと思います」
春日さんは、「術後、痛いんですよね? 苦しいんですよね?」とたずねる。
「体にとても負担がある手術を短いスパンで繰り返すことになります」
春日さんは、「母が強く望まない限り、もうやめてください。痛いのはやめてほしいです。痛がるのはもう見たくない」と強い口調で言った。
「では、手術は希望されない、それでよろしいですね?」
「希望しません。いいね? お父さん」
父親は首を縦に振って、目を拭った。
「わかりました。では状況にもよりますが、退院後は施設への入所をご希望ということでしたね?」と確認する医師。
春日さんは、「はい、転院もしくは施設でお願いしたいです」と答えた。ところが「わかりました。ただ、それまで間に合うかわかりません」と医師は言う。
「え?」と春日さんは言葉を失う。
「先ほどお伝えした通り、いつ何があってもおかしくない状況ですので……」
改めて、はっきりと「間に合うかわかりません」と言われ、春日さんははっとした。
「ごめんなさい。ここに、家に、帰してください。母の、母が育った家なので。施設じゃなくて、ここに。ここに戻してください!」
半ば叫んでいた。医師は「ご自宅で、認知症のお父様は大丈夫ですか?」と心配する。
「大丈夫です。何とかします。ここに、家に、戻してください!」
「『もう長くない』という現実を突きつけられて、ただ母のそばにいたいと思い、叫んでいました。当時の私は在宅介護がどんなものなのかも知らず、それがみとることとも考えてはいませんでした。コロナ禍だったので、施設に入れば二度と母と会えなくなるかもしれない。それだけは嫌でした」
■最後の命の選択
娘と父親を寝かせた23時ごろ、夫と話しをした。
「お父さんがまた昨日みたいになったらどうしよう? もうお父さんの側では、お母さんを寝かせられないよ」と春日さんが言うと、少し考えて夫は、「ここに介護ベッドを置いたらどうだろう?」と提案。こことはつまり、春日さんたちが暮らす1階のリビングだった。母親はもう、2階まで自力で上がることはできない。1階なら父親と離しやすい。春日さんはすぐに賛成した。
そうと決まれば、明日の介護ベッド搬入に備えて、ソファを移動させておく必要がある。2人はできるだけ物音を立てないようソファを2階に移し、介護ベッドのスペースを確保した後、1時半ごろ就寝した。
ところが3時半過ぎ。突然スマホが鳴り、春日さんは飛び起きる。母親の病院からだ。春日さんは緊張する。
看護師によると、母親の手術は無事終わったが、術後の痛みによるせん妄で混乱した母親が、口から入れていた管を自力で抜いてしまったのだと言う。その管を抜いてしまうと、せっかくした手術がなかったことになってしまうため、「手術をもう一度受けますか?」という電話だった。母親本人は、せん妄の状態ではあったが、「もういやだ」と答えたという。
一度電話を切り、10分ほど考えた春日さんは、決心した。
「このまま何もしなければ、母は死んでしまう。今母を助けられるのは私しかいない。でも、また母を苦しめることになるかもしれない。身体に負担をかけるだけになるかもしれない。その痛みで、また管を抜く可能性もある。その度にこれを繰り返すの? 母の体力は保つの? そして、これが何日も、昼夜関係なく24時間続くとしたら、私自身のメンタルは保つの……? ということを考えました」
春日さんは、「もう手術はしないでください」と電話した。スマホの音で起きてしまった娘を寝かしつけてくれた夫は、側で静かにうなずいた。
■折れた父親
火曜日の8時半ごろ、再び病院の看護師から電話があり、24時間体制で在宅看護するチームづくりについて説明を受けた。
水曜日、父親の通所申し込みをするため、ケアマネジャーが訪問し、父親と初対面する。父親は「僕はね、自分のことは自分でできるんですよ。だからせっかく来ていただいたのに申し訳ないんだけどね、僕はデイサービスなんていらないんですよ」と言う。春日さんは、父親を説得するうちに、号泣していた。
「昨日の病院からの電話覚えてる? 忘れてるだろうから何度でも話してあげるよ! お母さんはもういつ何があってもおかしくないの。今この瞬間だって生きてるのかわかんない。コロナ禍で面会もできないし、会えないまま死んじゃってもいいの⁈ なんで半日だけ出かけるのをそんなに嫌がるの? お父さん、人と話すの嫌いじゃないじゃん。もし話したくないなら、そこで本読でればいいじゃん! なんでそんなに嫌がるの? 歩いて5分じゃん。私はお母さんに帰ってきてほしい。このまま会えないなんて絶対嫌。たまには私のお願い聞いてくれてもいいじゃん! 1つくらい言うこと聞いてよ‼」
最後は絶叫していた。すると父親は、「もういいよ、わかったよ。言われた通りにするよ」と言った。すかさずケアマネジャーが、「これから見に行きませんか? すぐそこですし!」と促すと、父親は、「あぁそうですね! 行きましょう」と立ち上がった。
見学から帰ってきた父親は、翌朝からデイサービスを利用することになった。
■在宅緩和ケア
木曜日9時。父親は何とかデイサービスへ行き、春日さんは病院へ向かう。
母親はベッドに横たわったままエレベーターで玄関のある階まで下り、介護タクシーに乗せられた。
自宅に着くと、家には7人の客人がいた。「このメンバーで在宅医療をサポートしていきます」。
地元の訪問医療クリニックの院長と医師と看護師、訪問看護事業所の代表看護師と看護師、地元の調剤薬局の薬剤師、ケアマネジャーの計7人だった。
春日さんが母親のこれまでの経緯を話すと、医師たちからは、どのように過ごしてほしいと思うかなどを聞かれたあと、在宅介護の具体的なやり方について説明がある。
医療用麻薬は、15分程度に1回、自動的に投与される設定になっていたが、母親が「痛い」と言えば、追加することもできた。ただ、一定量を超えると追加できなくなる。「訪問時にどのくらい追加したかを見て、その後の量を調整したいから、ボタンを押したときにはその時間を記録しておくように」と指示を受けた。
「もう強い痛みが出ることはないということでしたが、母はこのあとどうなるのでしょうか? 暴れる可能性もありますか?」と春日さんがたずねると、
「お母様は今薬で痛みを緩和しています。起きてお話しできる時間もありますが、今後は眠る時間が徐々に長くなっていきます。ゆっくり静かに眠る時間が長くなり……なので痛くて暴れるような状態にはなりません。逆にもしそのようなことがあれば、すぐに連絡してください」と医師。
「眠るように……とは、何日ぐらいかけてでしょうか? はっきり言っていただいて構いません。覚悟、できてますから……」
「ゆっくり、2〜3日かけて、ゆっくり、だと思います」
「わかりました」
春日さんは手続きを終えると、母親のそばに行って声をかけた。母親はゆっくりだが、話すことはできた。娘の世話要員として来てくれていた義母にも、「迷惑かけちゃってごめんなさいね」と気遣い、名前を呼びながら孫の手を取った。
そこからは、母親が「痛い」と言えば、点滴のスイッチを押し、「起こして」と言えばベッドを起こし、「下げて」と言えばベッドを下げ、「暑い」と言えば氷や水を口に含ませた。
16時半ごろ、父親が帰宅。父親は母親が退院してくることを忘れていたことを隠し、照れくさそうに「おう! 具合はどうだ?」と片手を上げて言う。母親は同じように片手を上げて「おかえり」と言った。瞬間、春日さんは涙が溢れた。
「父と母を会わせて良かった。帰ってきてもらって良かった。『顔も見たくない』という母の言葉をうのみにしないで良かった……と心から思いました」
その日は、義母が娘を寝かしつけくれたので、春日さんはずっと母親のそばに居られた。春日さんは母親のベッドの横に布団を敷き、横になったが、眠れなかった。
■母親の死
土曜日の午前1時ごろ、母親の呼吸が荒くなり、春日さんは酸素の量を増やした。3時ごろ、うわ言のように「おかあさん、おかあさん」と何度も繰り返す母を見て、春日さんは「あ、育ての祖母に連れて行かれる」と思った。
6時15分ごろ、いつしか5分ほど気を失っていた春日さんがはっと目を覚ますと、母親の呼吸が止まっているように感じ、寝室で娘と寝ていた夫を起こす。夫とリビングに戻ると、母親は息を吹き返し、夫が「大丈夫だ」と言った瞬間、再び呼吸が止まった。6時20分ごろのことだった。
3階で寝ていた父親を呼びに行くと、医師と看護師の到着を待った。
6時50分ごろには看護師が到着し、エンゼルケアを受け、その30分後には、義父の運転で義母も到着。7時20分ごろに医師が到着し、死亡確認となった。
■父親と娘の限界
母親の葬儀前日も父親は深酒し、酒臭いまま参列して泣きじゃくっていた。春日さんは抱っこ紐に娘を入れ、喪主を務めた。
葬儀から一週間後、父親専用となった2階のリビングに行くと、観葉植物は倒れ、扉や壁紙は傷つき、テーブルの上のものが床に落とされていた。
「このままでは私も父もだめになる。いつか泥酔した父が、娘に危害を加えるかもしれない。そう思った私は、父のケアマネさんに『施設に入れたい』と相談し、紹介された3つのグループホームに申し込みましたが、どこも満床でした」
その後、ケアマネは車で約2時間の距離にある老健を紹介してくれた。アルコール依存症の可能性がある認知症高齢者を受け入れてくれる施設が、近場になかったからだった。
10月初旬。夫が用意してくれた夕食を並べ、春日さんが配膳の準備をしていると、酒を飲んでいた父親が「僕の通帳は?」「この家の権利書は?」「母さんが亡くなったことを僕の息子や母さんの友人に伝えたか?」と繰り返し聞いてくる。
思わず春日さんは、「ばかにしないでよ! 同じことばっかり1日中毎日毎日! いい加減にしてよ!」と怒鳴り、娘の離乳食をのせるトレーをテーブルに叩きつけて割ってしまう。父親は、「君こそ僕のことをばかにするな! なんだその目は!」と怒鳴り返す。
9カ月の娘をお風呂に入れていた夫は、異変を聞きつけ、娘を抱え、全裸のまま出てきた。うずくまって泣いている春日さんを目にすると「お父さん、ちょっと寝室に行った方がいいです。彼女を1人にしてあげてください」と言った。
父親は、ワインボトルとグラスを持って去ると、1時間後、何ごともなかったかのように下りてきて、晩酌を再開した。
老健入所の日。父親には「認知症のセカンドオピニオン」だと嘘をつき、家族4人、夫の運転で向かった。ところが、入所フロアに連れて行かれた途端、父親は強い帰宅願望を見せ、「窓を割ってでも出てやる!」という、乱暴な言葉を発したため、老健側は受け入れを拒否。
老健のスタッフから精神科への入院を勧められた春日さんは、帰りの車の中で、近場で入院設備のある精神科を調べ、電話をかけまくった。だが、「警察沙汰になるなどの緊急性がない限り入院できない」「認知症病棟は満床のため数カ月待ち」とすべて断られる。
翌朝、「自宅から遠いが、背に腹は代えられない」と、昨日行った老健の提携精神科病院へ連絡したところ、昨日の老健での話が通り、「13時に受け入れ可能」との回答を得る。再び春日さんは、父親に「認知症のセカンドオピニオン」だと嘘をつき、精神科へ連れて行くと、そのまま医療保護入院となった。医療保護入院とは、入院を必要とする精神障害者で、自傷他害のおそれはないが、任意入院を行う状態にない者を対象として、本人の同意がなくても、精神保健指定医の診察および保護者の同意があれば入院させることができる入院制度だ。
「入院後は毎日、『いつ迎えに来るんだ⁈ こんなとこに入れやがって! 面会も来ないで何してるんだ!』などと暴言電話がかかってきました。前日に面会していても忘れてしまうのです。これが寝かしつけや授乳、保活や母の事後処理の最中だったりグループホームの見学中だったりで、つらすぎました。『育児休職ってなんだろう? 親のことしかしてないのに』『なんで暴言を聞き続けなくてはいけないの?』と何度も思いました。電話が鳴るのが恐怖でした」
12月。父親はお酒から離れたことと、薬のおかげで他の患者とのトラブルもなく退院し、もともと入所するはずだった老健に入所。しかし老健では電話の時間制限がないため、精神科では1回5分だった暴言電話が20分に伸びた。
■親子の絆
2023年1月。面会するにもその老健は遠すぎたため、父親は奇跡的に空きが出た近所のグループホームに移った。
「通える距離のグループホームすべてに申込をして、手紙も書き、緊急事態であることを説明し続けた努力が報われました」
4月から娘は保育園に通い始め、春日さんは仕事に復帰した。
「正直、両親の介護でやりがいや喜びを得たことはありません。でも、母が最期に自宅に戻れて、『帰ってこられるなんて信じられない』と涙目で喜んでいたことだけはうれしかったです。育児と介護の両立だったからこそ、時間的に大変なこともりましたが、娘の存在に救われたことも事実でした」
春日さんの場合、第1子出産直後だったことに加え、一人っ子だったことや、両親がまだ60代と比較的若かったことも、突然始まった介護に翻弄される要因となった。
父親の前妻の息子たちは、春日さんの状況を知っているにもかかわらず、一切手を貸してくれなかった。
「私のように慌てずに済むように、両親に少しでも異変を感じたら、病院受診や介護保険の申請をしてほしいと思います。また、介護離職せざるを得ない方もいると思うので一概には言えませんが、私は、『いつか介護のせいで仕事を辞めたことを後悔するから、介護離職だけは避けた方がいい』『時として仕事は、介護や育児から逃げる時間やきっかけにもなるから』という言葉に従って本当に良かったと思います。育児や介護で悩んでいるのはあなただけではありません。どうか、つらい気持ちを分かち合える人に出会えますように……」
仲の良い母親が余命わずかとなれば、動揺しないわけがない。そんな中、第1子出産直後にもかかわらず、夫や義母たちの助けを得ながら娘の育児をし、母親をみとり、父親の世話をしてきた春日さんには頭が下がる。
春日さんは、コロナ禍で4月まで面会禁止だった父親のグループホームに、4カ月ぶりに夫と娘と行った。父親の暴言を覚悟し、前夜は悪夢にうなされた春日さんだが、久しぶりに会った父親はひたすら孫をあやし、童謡を歌い、「かわいいなあ」「大きくなったなあ」と言ってほほ笑んだ。別れ際に、「また来てくれよ~。でも、大変だろうから毎日は来なくていいよ」と笑う父親は、まぎれもなくかつての、情に厚く、穏やかな父親だった。精神科、老健、グループホームで、アルコール断ちができたのが良かったのだろう。
施設に入れたからといって、介護は終わりではない。それでも、子どもには子どもの生活がある。春日さんにはこれからも、娘第一、自分の家族優先で介護に向き合い続けてほしい。
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ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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