あわせて読みたい
学校教育での「友達がいないのは悪」という刷り込み…「ぼっち」にネガティブな先入観を持つ理由
一方で、「ぼっち」という言葉には、ややネガティブなイメージがつきまといます。
それは、なぜでしょうか?
そこには、ひとりである状態を、「自分自身で選択したのかどうか」という点が大きく影響していると考えられます。
ソロ活の場合は、積極的にひとりになることを選んでいる意味合いが強いのですが、ぼっちは、「気づいたらそういう状況になってしまった」「本来はひとりで過ごすことを想定しておらず、むしろひとりでいたくないにもかかわらず、不本意ながらひとりでいることを強いられている」という、望ましくない状態をイメージさせるのではないかと思います。
(中略)
由来となった言葉それ自体には、もともとはネガティブな意味はなかったと思いますが、時代を経て、組織・集団に属せないためにひとりである状態を選択せざるをえないという、孤立させられているかのような暗さを伴うイメージがついたと考えられます。
いわば、好き好んでぼっちを選んでいるのではなく、やむをえずぼっちでいる状態といえるでしょうか。
自分自身が「ぼっちの状態を望んでいない」から、同じようにひとりでいる人に対して、あたかも「誰にも受け入れてもらえない社会性のない人」として、無意識的に同情するような視線を向けてしまうのかもしれません。
「ぼっちはイタイ」「ぼっちはみじめ」という言葉には、ひとりでいる人はなにか問題がある人で、排除された人であり、自分はそうは思われたくないという強い拒絶の意志が組み込まれているのではないでしょうか。
ぼっちに限らず、「人付き合いが下手」もしくは「人嫌い」といった言葉は、どこか本人に落ち度があるような、ネガティブな言い回しとして使われてしまっています。
そして、一度でもそのようにみなされると、まわりの人たちはその人をあたかも触れてはならないケガレのように扱い、積極的に集団や共同体から排除するか、社会的ヒエラルキーの下層に位置づけようとします。
それゆえに、ぼっちやさみしい人に対して、誰しもが受け入れがたいニュアンスを感じてしまうのでしょう。
自分はひとりでいるのが好きで、自らの意志で、ひとりでいることを選んでいても、社会的に、ぼっちと規定されるのは、また別の話なのです。これはつまり、ぼっちに対するネガティブな先入観が社会のなかに存在するということであり、そこには、一筋縄ではいかない根深さが含まれているということでもあるのです。
ぼっちを最も強く意識させられ、生きづらさを感じさせられる場所が、学校ではないでしょうか。特にそう思わせられるのは、小学校・中学校時代かもしれません。
なぜなら、親や先生たちのぼっちへの見方が固定されていることに加え、人の流動性が低く、自分が所属している場所を移動・変更することが非常に困難な環境だからです。
学校生活のなかでは、友だちが多いことがいいとされ、友だちがいないことはまるで悪いように扱われる場合が多いかと思います。
■「友だちがいないのは悪」という刷り込み
(中略)
例えばそれは、学校行事や体育の時間、また具合の悪くなったときなどであることでしょう。先生から、「ふたり一組でペアを組みなさい」「好きな人同士でグループになりなさい」「保健室(もしくは自宅)にいる〇〇さんに、一番仲のいい人がプリントや荷物を持っていってあげて」などと指示されるシーンがあるでしょう。そんなとき、わたしがそうだったように「仲のいい友だちがいない」場合は、ちょっと面倒なことになります。
まあ、大して困りはしないのですが、先生が荷物やプリントを保健室に届けてくれたり、「余った人同士でペアを組みなさい」という指示に従ったりするという解決策がとられることになり、やや気まずい。
こうした出来事が繰り返されると、「友だちのいない人=人に迷惑をかけるやつ」「余りものはやっかい者だ」とみられてしまうというわけです。
学校は、友だちという社会関係資本の多寡に重きを置いてヒエラルキーをつけようとする、非常にアンフェアな環境と考えることもできます。
(全文はこちら)
https://news.yahoo.co.jp/articles/431000fa76b57c37e02e7c36aa49a638a0c71522