頭のいい人ほど「語彙力」が豊かなのはなぜ?言語哲学者が解説する見えている世界の差

頭のいい人ほど「語彙力」が豊かなのはなぜ?言語哲学者が解説する見えている世界の差

頭のいい人ほど「語彙力」が豊かなのはなぜ?言語哲学者が解説する見えている世界の差

頭のいい人ほど「語彙力」が豊かなのはなぜ?言語哲学者が解説する見えている世界の差

聡明さと語彙力にはどのような関係性があるのか。コンサルタントの山口周さんは「われわれは自分の言語の枠組みでしか物事を把握することができない。世界を精密に知るためには、多様な語彙を身に付ける必要がある」という――。

※本稿は、山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

フェルディナンド・ソシュール1857~1913
スイス言語学者、言語哲学者。「近代言語学の父」と言われる。

■「モノ」に後追いで「コトバ」が付けられているわけではない

「モノ」があって「コトバ」がある。私たちは通常、「モノ」という実在があって、それに対して「コトバ」が後追いで付けられたように感じています。旧約聖書を見てみるとわかりやすい。創世記2・19には次のような記述があります。

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。

しかし、本当にそうなのであれば、モノの体系と言語の体系が文化圏によって異なることが説明できません。ソシュールは次のように指摘します。

フランス語の『羊』(mouton)は英語の『羊』(sheep)と語義はだいたい同じである。しかしこの語の持っている意味の幅は違う。理由の一つは、調理して食卓に供された羊肉のことを英語では『羊肉』(mutton)と言ってsheepとは言わないからである。sheepとmoutonは意味の幅が違う。(略)もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし現実はそうではない。

内田樹『寝ながら学べる構造主義

■なぜフランス語は「蝶」も「蛾」も「Papillon」で表すのか

日本人には馴染みの薄い「羊」が例に挙げられているので少しわかりにくいかも知れませんが、ここで重要なのは「意味の幅が違う」という指摘です。つまり、ある言葉が概念として指し示す範囲が、文化圏によって違うということを言っているわけです。

例えば私たちにとって「蛾」と「蝶」という言葉には馴染みがあります。これら二つの言葉は、「蛾」と「蝶」という2種類の虫がもともとあって名付けられたと考えがちですが、ソシュールによればそれは間違いだということになります。なぜならフランス語には「蛾」という言葉も「蝶」という言葉もなく、それらを包含する「Papillon(パピヨン)」という言葉しかないからです。

■フランス語に「蛾」を表す言葉がないわけではない

フランスでは、私たちが「蝶」と「蛾」という二つの言葉を用いて分けている概念が、一つの範囲のもの、つまりより「大きな幅」を示す言葉として「Papillon」として整理されている、ということです。

ここは非常に誤解されやすい点で、初学者向けにはよく「蝶に該当するpapillonという言葉はあるが、蛾に該当する言葉がない」といった説明がされていますが、これはソシュールの指摘を根本的に誤解している人の理解です。ソシュールが言っているのは全くそういうことではなく、概念を整理するシステムが根本的に異なっている、ということです。

「蝶」と「蛾」という概念を二つの別のものとして使い分けているのが日本人ですが、もし「蝶」に該当するのが「Papillon」で、「蛾」に該当する言葉が単にないだけだとすれば、フランス人も同じように「蝶」と「蛾」を別の概念として整理していることになります。

そうではない、フランス人には「蝶」という概念も「蛾」という概念もなく、両者を同じ集合として捉える「Papillon」というまったく別の概念を用いる、ということです。逆に言えば、厳密な意味でフランス語の「Papillon」に対応する概念は、日本語にはないということです。

あらゆる場合において、私たちが見出すのは、概念はあらかじめ与えられているのではなく、語のもつ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である。(略)概念は示差的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。より厳密に言えば、ある概念の特性とは、『他の概念ではない』ということに他ならないのである。

内田樹『寝ながら学べる構造主義

■「概念」はその国の言語によって異なる

ソシュールは、概念を示す言葉をシニフィアン、言葉によって示される概念そのものをシニフィエと名付けます。

例えば先述した例を用いれば、日本語では「蝶」と「蛾」という二つのシニフィアンを用いて、二つのシニフィエを示しているのに対して、フランス語では「Papillon」というシニフィアンを用いて、日本語の「蝶」でも「蛾」でもない、両者が合わさったようなシニフィエを示しているということです。そして、シニフィアンとシニフィエの体系は言語によって大きく異なる。

先述した喩え以外にも、日本語では「湯」と「水」は別のシニフィアンですが、英語には「Water」というシニフィアンしかありませんし、あるいは「恋」と「愛」は別のシニフィアンですが、英語には「Love」というシニフィアンしかない。

■私たちの思考は言語による影響を受けている

さて、ソシュールによる指摘は、なぜ重要なのでしょうか。二つの点があります。

一つは、私たちの世界認識は、自分たちが依拠している言語システムによって大きく規定されている、ということを示唆するからです。西洋哲学が「世界はどのように成り立っているのか」という「Whatの問い」からスタートしていることはすでに説明しましたね。

この「問い」以来、デカルトスピノザらが活躍した17世紀くらいまでの哲学者は、事実に基づいて明晰(めいせき)に思考を積み重ねていけば、「真実」に到達することができる、と考えていたわけですが、本当にそうなのか、という大きな疑義をソシュールは投げかけます。

どういうことか。私たちは言葉を用いて思考するわけですね、当たり前のことです。しかし、その言葉自体が、すでに何らかの前提によっているとすればどうか。言葉を用いて自由に思考しているつもりが、その言葉が依拠している枠組みに思考もまた依拠するということになってしまいます。

私たちは本当の意味で自由に思考することができない、その思考は私たちが依拠している何らかの構造によって大きな影響を不可避的に受けてしまう、これが構造主義哲学の基本的な立場です。

■「自身の構造でしか考えられない」という構造主義哲学

ソシュール自身は言語学者であるにもかかわらず、構造主義哲学の始祖と呼ばれるのはそのためです。

ちなみに「私たちは私たちが依拠している構造によって考えることしかできない」ということを、別の角度から指摘したのがマルクスニーチェフロイトらでした。彼らはそれぞれ、私たちの思考が「社会的な立場」「社会的な道徳」「自分の無意識」などによって不可避的に歪められてしまうことを指摘し、これらの考察が、やがてレヴィ=ストロースに代表される構造主義哲学へと収れんしていくことになります。

■語彙の豊かさは世界を分析的に把握する力量に直結する

ソシュールは、古代ギリシア時代から連綿と続いてきた、理知的な考察によって真理に到達することができる、という無邪気な「理知原理主義」とも言うべき考え方に、哲学とはまったく異なる側面から、決定的なダメ出しをしたわけです。これがソシュールの指摘が重要だとされる、1点目の理由です。

ソシュールの指摘がなぜ重要なのか、2点目の理由は、語彙(ごい)の豊かさが世界を分析的に把握する力量に直結する、ということを示唆するからです。先ほどまでは日本語フランス語、あるいは英語を比較していましたが、同じ日本語を用いる集団の中で、より多くのシニフィアンを持つ人とより少ないシニフィアンを持つ人を比べてみた場合はどうでしょうか。

ソシュールが指摘するように、ある概念の特性が「ほかの概念ではない」ということなのであるとすれば、より多くのシニフィアンを持つ人は、それだけ世界を細かく切って把握することが可能になります。細かく切る、つまり分析ということです。

あるシニフィアンを持つ、ということはあるシニフィエを把握することに繋がります。概念という言葉しか持たない人は、概念という言葉の中に含まれている「シニフィアン」と「シニフィエ」を分けて認識することができません。「シニフィアン」という語彙を持っているからこそ、ある概念が示されたときに、それが「シニフィアン」なのか「シニフィエ」なのか、判別する機構が働くことになるわけで、これはそのまま、世界をより細かいメッシュで分析的に把握していく能力の高低に繋がることになります。

■多くの言葉を知っていればより精密な世界が見える

本書で説明している哲学・思想の用語がまさにそうです。これらの用語は日常生活を送る上ではほとんど役に立ちませんが、本書冒頭に示した通り、目の前で起きている事象をより正確に把握するための洞察を与えてくれるはずです。なぜ、概念が洞察を与えてくれるのかというと、それは新しい「世界を把握する切り口」を与えてくれるからです。

まとめましょう。ポイントは二つです。まず、私たちは、自分が依拠している言語の枠組みによってしか、世界を把握することはできないということ。二つ目には、それでもなお、より精密に、細かいメスシリンダーを用いて計量するように世界を把握することを試みるのであれば、言葉の限界も知りながら、より多くの言葉=シニフィアンを組み合わせることで、精密にシニフィエを描き出す努力が必要だということではないでしょうか。

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山口 周やまぐちしゅう
独立研究者・著述家/パブリックスピーカー
1970年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て現在は独立研究者・著述家・パブリックスピーカーとして活動。神奈川県葉山町在住。著書に『ニュータイプの時代』など多数。

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フェルディナン・ド・ソシュール(写真=Frank-Henri Jullien/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

(出典 news.nicovideo.jp)

語彙・読解検定(ごい・どっかいりょくけんてい)は、ベネッセコーポレーションと朝日新聞社が共同で実施していた、語彙力や読解を測る民間の検定試験である。2018年度第2回試験をもって終了した。 1級は年1回、準1級から4級までは年2回実施され、各級とも5択の択一問題のマークシート形式だった。「辞書語…
3キロバイト (191 語) – 2023年11月10日 (金) 21:47

(出典 bokumato.blogo.jp)
コメント:頭のいい人ほど語彙力が豊かな理由の一つは、彼らが幅広い分野の知識を持ち、それを的確に表現する能力を持っているからだと思います。語彙力は深く学んだ知識と密接に関連しており、経験や学習を通じて蓄積されていきます。

コメント:語彙力は、人々が思考を整理し、共有する手段として非常に重要です。頭のいい人は複雑なアイデアを簡潔に伝えることができるため、コミュニケーションや表現力の面でも優れていると言えます。このような語彙力の差によって、彼らはより深い洞察や理解を持つことができ、知識を効果的に活用することができるのです。

コメント:語彙力が豊かな人は、言葉を使ってより繊細な意味を伝えることができます。彼らは、言葉の選択や表現方法に敏感であり、細かいニュアンスや概念を明確に伝えることができます。これにより、彼らの認知の範囲が広がり、世界をより複雑かつ豊かなものとして捉えることができるのです。

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