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大学生が走るだけなのに、なぜこれほど人気なのか…箱根駅伝が「正月の風物詩」になった恐るべき理由
生島淳
https://president.jp/articles/-/75195
2023/11/05 12:00
■箱根駅伝は「ラジオで聴くもの」だった
昭和50年代の日本のお正月は静かなものだった。お店はすべてお休み。宮城県の気仙沼なんて、シーンとしていたものだ。日本全国、いつから元日でもお店を開けるようになったのだろう? 静かなお正月が懐かしかったりする。
わが家は食堂で、大晦日までお店をやっていたし、滅多になかったけれど、望まれれば元日にも出前に行ったりしていた。自分も正月からラグビーや駅伝の取材に行くのが苦だと思わないのは、母親の背中を見ていたからかな、と感じる。好きな仕事、求められている仕事であれば、お盆もお正月も関係ない。
そんな環境で育ち、私は昭和52(1977)年のお正月から箱根駅伝を聴き始めた。
当時も東京の民放局は中継をしていたようだが、ラジオの中波(といっても、もう若い人には通じない)は電波の性質として昼間は遠くに届かず、宮城では夜にならないと東京の放送局は聴けなかったから、もっぱらNHK第一で聴くのが毎年の楽しみになった。
■早稲田大学の瀬古利彦
小学校低学年の時から、私はすでに東京六大学野球、ラグビーの「耽?の沼」に足を踏み入れていたが、1974年に法政大学に進んだ次兄が「今度、早稲田に瀬古というすごい選手が入ったんだ」と教えてくれた。一浪して1976年に早稲田に入った瀬古さんは、大学1年の箱根駅伝で一時は順位を大きく上げたが、後半に失速して順位を落とした。それでも「瀬古」という響きがとても良くて、私の記憶のなかに瀬古利彦という名前が刻まれたのである。
のちに、瀬古さんに大学1年生の時の話を聞いたことがある。
「あの時は苦しかったよ。最初はいい調子で入れたんだけど、2区が25.2kmもある時で、最後の権太坂で足が止まってしまったんです」
瀬古さんが、解説席で2区の走りについて、序盤はわりと慎重に入るランナーを好むのは、自分の経験が影響しているのかなとも感じた。それは渡辺康幸監督も同じだ。
瀬古さんは、このあとの2月に京都マラソンに出場して2時間26分00秒で10位に入り、新人賞を獲得している。
「箱根駅伝も苦しかった。京都マラソンはもっと苦しかった。もう二度とあんな苦しい思いはしたくない。それでいっぱい練習しなくちゃいけなかったんだ」
瀬古さんはそう振り返っている。そして1977年の福岡国際マラソンで5位に入り、日本中に名を知らしめた。エンジに「W」のユニフォームがなんともカッコ良かった。
瀬古さんは年が明けて箱根駅伝の2区を走っている。この時は法政の成田道彦(のちに法政の監督になる)に区間賞を譲った。なんだか悔しかったのを覚えている。それでも瀬古さんは気にしていなかった。
※以降出典先で