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対ロシア、徳川家康が北方開発進めていれば…オホーツク海は日本の内海に 理解に苦しむ保守派の「鎖国は賢明」
竹島問題も日本人が住んでいた鬱陵(うつりょう)島を朝鮮に譲ったのが遠因だし、沖縄も島津氏の保護だけに留めたから苦労した。
北方では、平安時代に青森県東南部まで支配下にした。ただ、意識としては平家物語に千島(列島)が出ているし、松前藩はカムチャツカや樺太も所領としていた。アイヌの間接支配で満足し、鎖国で国際情勢も寒冷地での防寒も学ばなかった。
ロシアは16世紀末からシベリアに進み、1648年にオホーツク海に達した。清の康煕帝は89年、ロシアのピョートル1世とのネルチンスク条約で、ロシアを樺太の北端よりさらに北に封じ込めた。
ところが、江戸幕府はロシアの動向すら知らず、1771年にカムチャツカに抑留されていたポーランドの軍人、モーリツ・ベニョヴスキーが脱出して日本に立ち寄ってロシア進出を知った。
江戸中期の老中、田沼意次は蝦夷地開発を進めた。だが、後任の老中、松平定信は林子平の『海国兵談』を発禁にしたり、蝦夷地開発はロシアを誘い込むとして遅らせるなど迷走した。
北方に派遣された松前藩、幕府、東北諸藩の少数の現場の武士は慣れない土地で奮闘したものの、その場しのぎだった。
ペリー来航(1853年)後、日米和親条約(54年)で200年以上続いた鎖国政策は終わる。翌55年、日露和親条約で、択捉島より北はロシア、樺太は雑居地としたがロシアの進出が圧倒的で、樺太・千島交換条約で樺太は放棄した。
古代日本は、朝鮮での「任那復興」をあきらめたのち、北方開発に全力を挙げた。徳川家康が北方開発を進めて鎖国もしなければ、オホーツク海は日本の内海だったのではないか。
このあたり、専守防衛と憲法9条で国が守れるという哲学と通じるが、最近の保守派の多くまでが「鎖国は賢明な政策だった」というのは、理解に苦しむ。 (評論家・八幡和郎)
https://www.zakzak.co.jp/article/20231026-B7ZXVM3BONLRFH2LTDHHLXJWLU/