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【大半は軍や警察が保護】「井戸に毒? 私が飲んでみよう」…朝鮮人300人を救った日本の警察
ー前略ー
当時46歳だった大川署長は鶴見警察署に朝鮮人を一人二人と保護し始めた。だが、デマが広がって部下の警察官さえ動揺した。
大川署長は「朝鮮人はみな善良な良民」としながら説得したが容易ではなかった。
動揺が続き、大川署長は朝鮮人を近くにあった寺の本堂に移動させ、彼らを守るために警察官30人余りを配置した。
朝鮮人の数が増え続けると大川署長は再び警察署に彼らを移した。
大震災3日目である9月3日、1000人を超える集団が鶴見警察署を取り囲んだ。
「警察署は朝鮮人保護所か、朝鮮人を出せ」という威嚇が続いた。
一触即発の状況で大川署長は「朝鮮人に手をあげるならやってみろ。1人も渡すことはできない」と対抗した。
「1人でも脱出すればどうするのか」という自警団の抗議に大川署長は「もし1人でも逃げる人がいたら割腹する」と約束した。
結局自警団は帰り、大川署長がこうして救った朝鮮人は約300人に達した。
警察の記録の他にも当時の彼の行跡を追った記録がある。
在日同胞作家の朴慶南(パク・ギョンナム)さんが大川署長の息子と目撃者を取材して1992年出版した本『ポッカリ月が出ましたら』だ。
「不逞鮮人」を出せという自警団の脅迫があった9月3日、大川署長は「朝鮮人が毒を入れたという井戸水を持ってこい。
私がまず飲む。異常があれば朝鮮人を渡す。異常がないなら彼らを私に任せろ」と一喝した。
大川署長はなぜ朝鮮人をかばうのかという自警団の叱責に「どこの国の人でも人の命であることには変わりない。
人の命を守ることが私の仕事だ」と答えた。
本を見せてくれたユタカさんは「当時朝鮮人を守ってほしいと議員にも要請したことがあるが、
やはり祖父はなぜそのようなことをいうのかと言われたそうだ」として当時の状況を伝えた。
ー中略ー
関東大震災当時、朝鮮人300人を救った神奈川県鶴見警察署長の大川常吉が当時受け取った感謝状。
漢文とハングルを混ぜて書いてある感謝状には韓国人の名前が一緒に書かれてある。キム・ヒョンイェ東京特派員
◇大川一族の家宝、写真に残されたその日
ー中略ー
手紙は大川署長の保護で命を救われた朝鮮人が大震災5カ月後に送った感謝状だ。
日本語ではない漢字とハングルを混ぜて書かれた手紙の末尾には8人の朝鮮人の名前が書かれていた。
ユタカさんは「ハングルはよく分からないが漢字だけを見ても当時どんな気持ちで書いたのか伝ってくる」としながら
「本当にありがたく思う」と話した。
大川署長の昔のアルバムを取り出して見せてくれた孫の手が止まった。ユタカさんが用心深く取り出して見せてくれたのは写真4枚。
通りの至る所に、官公庁の前とみられる建物の前に無惨に虐殺された人々の死体が山のように無造作に積み上げられている。
当時の状況がどれくらい凄惨だったかを示す写真を大川一族はなぜ今まで保管しているのだろうか。
ユタカさんは「戦争で当時記録がたくさん流失したが、祖父はこの写真を残して状況がこうだったということを証拠として、記録として残そうとしたようだ」と伝えた。
◇「祖父、当然の『人としての道理』を果たしただけ」
63歳で亡くなった大川署長の墓は横浜東漸寺にある。朝鮮人は故人を賛える碑を建てた。
関東大震災で6000人を超える朝鮮人が命を失った。ユタカさんは記者に「国籍が何であろうと人の命は大切だ」とし
「祖父は何か特別なことをしたのではなく、当然しなければならない『人としての道理』を果たしたと考える」と話した。
中央日報/中央日報日本語版2023.09.01 07:30
https://japanese.joins.com/JArticle/308500?sectcode=A10&servcode=A00