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極東の小さな島国・日本が軍事大国を打ち負かした日露戦争 白人の植民地支配に苦しむ世界各地に希望と勇気
幕末の1861(文久元)年、ロシアの軍艦「ポサドニック号」が対馬に侵攻し、芋崎半島に勝手に上陸して兵舎や工場、練兵場などを建て、略奪・拉致などの乱暴を働いた。揚げ句は芋崎の租借を要求してきた。
この「ポサドニック号事件」は、日本にロシアの軍事的脅威を思い知らせた大事件だった。最終的に、強大な海軍力を持つ英国に軍艦を対馬に差し向けてもらってポサドニック号を追い払ったが、ロシアはその後も南下の好機を伺い続けた。
朝鮮の独立を求める日本と、朝鮮の属国支配を続けようとする清国が戦った「日清戦争」(94=明治27=年)では、ロシアは虎視眈々と介入の機会を狙っていた。
下関講和条約(95=同28=年)の後には、ロシアはフランスとドイツを誘ってこの日清間の条約に介入し、日本に割譲された遼東半島の清国への返還を求めた。「三国干渉」である。
だが、それだけではなかった。ロシアは満州北部の鉄道敷設権を得るだけでなく、あろうことか遼東半島の旅順と大連を清国から租借したのだ。
その後も、ロシアは朝鮮半島への進出をもくろみ、李朝への影響力を強めた。そして、ウラジオストクまで東清鉄道を開通させるなど、ロシアの極東進出はいよいよ日本の深刻な脅威となった。
このままロシアの極東進出を放置すれば、その強大な軍事力は日本に向けられることは明らかだった。こうして04(同37)年2月、日本はついに開戦に踏み切ったのである。
開戦後、日本陸軍は多大な損害を出しながらも旅順を攻め陥とし、奉天でもロシア軍を打ち破った。そして日本海軍は、世界最強のロシア「バルチック艦隊」を日本海で迎え撃って壊滅せしめ、大勝利を収めた。そうして05(同38)年9月、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介によって、「日本の勝利」というかたちでポーツマス講和条約が締結された。
日本の勝利は、開戦2年前の02(同35)年に締結された「日英同盟」によるところが大きかった。もし、日英同盟がなければ、日本がロシアに勝利することは難しかったといってよかろう。
以前にも本紙連載で紹介したが、締結当時の本条約では、簡単にいうと、日本がロシアと一対一で戦っているときに他国が加勢した場合は、英国が日本を助けて参戦することになっていたのだ。要するに日英同盟が、ロシアと同盟関係にあったフランスの参戦を阻止したのである。
さらに、英国は、バルチック艦隊が大英帝国植民地への寄港することを断るなどして同艦隊を苦しめ続けた。こうして、疲労困憊(こんぱい)して日本海に姿を現したバルチック艦隊を、英国製戦艦を中心に編成された日本海軍連合艦隊が完膚なきまでにたたきのめしたのである。
極東の小さな島国・日本が、世界最強の軍事大国ロシアを打ち負かしたことは世界中を驚かせ、日本の国際的地位を押し上げた。とりわけ、白人の植民地支配に苦しむ世界各地の人々は日本の勝利に狂喜乱舞し、独立の希望と勇気を与えた。
このことからも、日露戦争は人類史上最も高く評価され称賛されるべき出来事だったといってよかろう。
■井上和彦
https://news.yahoo.co.jp/articles/e3ac48063e67b4d5d8d6f616d1b2c98a9a0c9bd1