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【在日三世】 韓国と北朝鮮の対立のウラで、脱北者たちが直面している「過酷すぎる現実」と「知られざる胸の内」
私が出会った「脱北者」たち
現在、韓国には約33,000人の脱北者がいると言われている。
TVの画面を通してニュースとしては度々見てはいたが、朝鮮学校出身としては脱北者というとやはり気になる存在だった。しかし、日本に住んでいた頃は、脱北者、帰国者に会う機会はなかった。
私が初めて脱北者と“ニアミス”したのは高校時代、確か福井県だったと思うが、漁船で脱北したとされる北朝鮮の漁船(沖から十分見える)に向かってデモをした時だ。
漁船に向かって「北に帰れぇ~」「裏切り者ぉ~」と叫んでいたが、いま考えればその時すでにデモを行った場所の横にある海上警察に保護されていたのだ。
日本にいた頃の脱北者とのかかわりと言って良いのかわからないが、この1度が脱北者を間近に感じた時だった。
光化門で会った脱北者
それが韓国に移り住んでからは、なんとも気軽に脱北者と出会えるから不思議である。
たとえば、ソウルのデモでは、有名な光化門に週末行けばどこかの脱北者団体が出てきている。
また去年11月に釜山に所用で行った際にも、釜山駅裏の広場で「脱北者を励ます会」という催しがあり、そこには多くの脱北者が参加していた。
私が初めて脱北者と直に話す機会があったのは、韓国メディアの記者に紹介してもらったときのことだった。脱北者支援団体と親しいと聞き、紹介をしてもらったわけだが、やはり会う場所は光化門だった。
私が出会った脱北者は、全員が「苦難の行軍」と言われる1998年までに300万人が飢えで死亡したと言われる危機的飢餓の中、何とか生き残り韓国へと逃げ延びたと言っていた。
男性脱北者と初めて会った時の印象は、時折見せる「厳しい視線」であった。
命をかけて脱北して来たということはもちろんのこと、それ以上に、北朝鮮で経験した人民軍生活の厳しさを感じさせる視線を時折投げかけてくるのだ。
この視線はその後、出会う男性脱北者全員に共通していた。
また、女性の場合、警戒しながらも気さくな人が多いように思えた。やはり「苦難の行軍」で、女性として、母として、北朝鮮で家族の生活を支えて来た様子がうかがえるのだ。
昭和の肝っ玉母さんの様な感じ、と言えばわかりやすいかも知れない。
脱北して北朝鮮で食べられなかったご馳走や本当のお酒(北朝鮮では主に自分たちで作る酒がメイン)を食べたり飲んだりしても、2年ほどは太れないという。
また、ご馳走といって食べすぎると吐いてしまうとも。「苦難の行軍」と北朝鮮では長年粗末な物しか食べられなかったことによって、韓国での裕福な食べ物にすぐには体が馴染めないというわけだ。
豊 璋(在韓国コンサルタント)
現代ビジネス 3/11(土) 7:33配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/c0d2bfd00a4547f7c4bcc3eb96bbf9e9525d26c6