日帝は在来種を踏みにじった…韓国の米中心農法は日帝残滓 水原に残る日帝記念碑群に収奪の歴史

NO IMAGE

日帝は在来種を踏みにじった…韓国の米中心農法は日帝残滓 水原に残る日帝記念碑群に収奪の歴史

1: おっさん友の会 ★ 2023/03/10(金) 11:21:38.02 ID:l38iBzJL
②現場の記録-水原:歴史の真実に直面する

水原のあちこちを歩くと、親日残骸の痕跡を見つけることができる。市民が行き来する公園で、あるいは私たちに馴染みのある
象徴的な場所で、道端など日常で親日残滓の痕跡はまるで記念碑のように染み込んでいる。
記念碑か恥辱な日本製の産物なのか、明確に分かりにくかった象徴物は、京畿道と京畿文化財団が2021年と2022年に設置した
「日帝残滓の象徴物案内板」で市民に歴史的事実に向き合うことになった。ここで私たちはどんな歴史的事実を見て未来に向かって
進むことができるだろうか。歴史的事実が記録された親日残滓の象徴物を訪ねてみた。最初の地域は案内板が9ヶ所設置された水原だ。

■朝鮮の食糧を収奪するための痕跡
日本は朝鮮の米と食糧生産量を増大させて収奪しようとした。その行為は現在、水原市巻線区所在の農村振興庁国立食糧科学院中部作物部付近で
見つけることができる。ここにはホンダ・コスケ巻業模範場長、巻業模範場警戒席、潜業試験所・女潜業講習所標識など親日残材の象徴物が残っている。

日帝は日本の農業体系を朝鮮に強制的に移植した。もっと米を生産して日本に収奪するためだ。
巻業模範章は、こうした朝鮮の米収奪のため果たした。「巻業模範場警戒石」は水原巻業模範章の領域を表示する警戒石の一つで
1910年から1929年の間に製作されたと推定される。

ホンダ・コスケはこのような巻業模範状の首長を務める人物。東京美術学校の朝倉文夫教授が製作したが、現在は消えて座台だけ残った。
左代前面には「ホンダコスケ先生」を日本語で、裏面には建立耐力が「海岸キム・ギュジン」の文字で刻まれている。

キム・ドヒョン文化財専門委員は「1910~1920年代まで日本式優良品種と命名したものを韓国に持ってきて強制普及しながら
私たちの伝統的な在来品種を強制的に抜いてしまった。日本式品種は多くの肥料、人材を必要とし、私たちの環境と風土には合わなかった」とし
「3・1運動の時、農民が反発した理由の一つは、私たちの伝統的な品種を踏みにじったことに対する怒りでもあった」と明らかにした。

日本の品種が韓国の環境に合わず生産量がむしろ落ちると、朝鮮総督府は産米増殖計画を施行した。
1920~1925年の和米品種を普及する1次政策で、1926~1931年貯水池を作る修理組合運動に進んだ。金委員は「もともと韓国は米だけでなく
大麦など穀物をまんべんなく生産したが、今米が微作中心となったのはこのような日帝時代の米中心農法がまだ続いている事に遺憾」と話した。
このような象徴物は現在、西鈴洞「水原農林学校跡」と永通区水原博物館野外展示場に建てられた「水龍修理組合記念碑」と「歯山寸法支費」
で見つけることができる。

‘水龍修理組合記念碑’は当時龍仁郡面麓に築造した麗川貯水池と新大貯水池の2つの竣工を記念するために建てられた。
水龍修理組合は当時京畿道の代表的な修理事業で、大地主が収益を独占し、中小持株と小作農の没落を早めた。
「チサン寸法支費」は、水原地域のチサン寸法事業の完了を契機に、1941年10月、水原郡日王面長イ・ソクレが主導して建立した日帝記念物。
これらの収奪物は鉄道に乗って日本に行った。そのうち代表的な通路が「水仁線鉄道」だ。京畿道沿岸地方で作られた塩と京畿東部地方で
生産される穀物まで仁川港に乗せて日本に搬出する役割を果たした。

日帝の米収奪に関連する象徴物は長年まるで記念碑のように痕跡が残っていたが、最近「親日残滓の象徴物記念案内板」が設置され
象徴物の誕生背景と時代的状況が市民にもきちんと知られ始めた。

(略)

京畿日報 (韓国語) Google翻訳 2023-03-08 20:35
https://www.kyeonggi.com/article/20230308580343


続きを読む

続きを見る(外部サイト)

ニュースカテゴリの最新記事