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【大学入試】コミュ力重視の入試で起こっていること。格差以前の問題点とは
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かつて大学などの入学試験はペーパー試験一辺倒で、テストにさえ合格すれば希望の学校に入ることができました。ところが近年は人物重視ということで、面接や小論文などを課すところが増え、いわゆるコミュニケーション能力(コミュ力)が強く問われるようになっています。企業の採用は以前からコミュ力が必要などと言われてきましたが、最近はさらにその傾向が顕著になっているようです。
コミュ力重視になっているのは、視野の広い人材を獲得することが目的ですが、ペーパー試験の比率を下げることは格差の拡大につながるとの指摘も出ています。一部の家庭ではコミュ力を身につけさせるため、子どもの頃からお金をかけて多くの体験をさせており、これができない子どもとの間に格差が生じるという話ですが、この問題についてはどう考えればよいのでしょうか。
学校や就職の試験において、ペーパー試験以外の比率を高めることそのものについては、多くの人が納得しているのではないかと思います。中にはコミュ力を重視すると基礎学力が落ちると批判する人もいるようですが、絶対的な合格ラインを設定しておけばこの問題は回避できます。
例えば、ペーパーテストで85点以上を合格とし、あとはペーパー以外の項目で評価するという選抜方式と、ペーパーテストだけで決定するという選抜方式であれば、おそらく前者の方が優秀な人材を採用できるでしょう。
85点以上であれば一定の学力は証明されているわけですから、それ以外の才能を多角的に評価した方がよいに決まっています。ペーパー試験だけで決めてしまうと、上から100点、99点、98点と1点刻みで並んでしまい、もしかすると90点の人は不合格になってしまうかもしれません。確かに90点の人と99点の人を比較すれば、点数は99点の方が上ですが、90点の人が他にも多彩な才能を持っていた場合、逸材を逃してしまう結果となります。
しかしながら、多角的な選抜の方がよい人材を選抜できる、という話は「評価する側の能力が高ければ」という前提条件が付きます。評価する側が凡庸な人材だった場合、ペーパー試験以外の項目を正しく評価できなくなってしまいます。コミュ力を重視すると、お金をかけた子どもや学生ほど有利になるというのは、そうした状況下(採用する側に能力がない)では、十分にあり得ることでしょう。
いくらお金をかけてイベントを体験したり、海外生活を体験したり、あるいはボランティア活動に取り組んだところで、それを自分自身の言葉で、しかも採用する側の論理で説明できなければ、コミュ力でも何でもありませんが、凡庸な人はそれを能力と勘違いしてしまいます。
筆者が就職活動をしていた時代は、バブル崩壊直後で、当時もやはりコミュ力重視が叫ばれていました。書店には就職活動のマニュアル本が並んでおり、実際、企業の面接に行くと、多くの学生が判で押したように就職マニュアル本に書いてあること(サークル活動を通じてリーダーシップを学んだとか、スポーツを通じて協調性を学んだといったような話)をまくし立てていました。
「こんな(同じような)話ばかりして効果があるのか?」と筆者は常々、疑問に思っていましたが、実際、そのような単純アピールで合格を勝ち取る人がいたわけですから、すべては採用する側の能力次第ということなのでしょう。
結局のところ多角的な評価というのは、試験を受ける側の問題であると同時に、試験を行う側の問題でもあるわけです。金太郎飴のような人を高く評価する学校や会社は、所詮、その程度の組織ですから、テストを受ける側もドライに選択するという姿勢が必要となります。
評価する側が凡庸だった場合、家庭環境が良くない人が不利になるのはその通りかもしれませんが、その程度の組織にどれほどの魅力があるのかは疑問なところです。
仮に家庭環境が悪くても、それを自覚して、客観視する能力さえあれば、そうした家庭環境で育ったことを自身のストーリーにすることができるはずであり、能力のある人ならしっかり評価してくれることでしょう。
最大の問題は、あまりにも家庭環境が劣悪で、まともに勉強したり、自身を客観視できるような状況に置かれていない子どもたちです。しかしながら、この問題は試験における評価項目の是非というよりも、社会保障制度や教育制度の問題ですから、これをもってペーパー試験のみにすべきとの根拠にするのは、少々論点がズレているように思います。
(以下リンク先にて)
面接は悪くない。面接試験は本来学力筆記試験を補うために行うべきもので
面接ではボランティアとかクラブ活動なんかの話をするよりも
学力を口頭形式で診るべきだと思う
予備校や参考書で教えられた公式を暗記した学力ではなく、問題と解決を自分で導き出し、時には解なしという結論づける能力も必要
それは試験を課す側の能力も問われる
まずは固定電話テストを
この国のコミュ力ある奴ってただウザイだけの
ブルーギルみたいな奴じゃないの?
そういうのが増えても、俺たちが生き苦しいだけじゃね
そして逆にコミュ力がない奴はない奴で、陰湿なクズが多いんだよね
ヤオヨロズの国は
今の時代は二馬力フルパワーか、単馬力高収入で奥さん専業でないと
中流階級を維持できなくなってるな
単馬力低収入家庭は教育に金をかけれないから即下流行きになる
生まれる前から競争が始まってる、というか身分が決まってる階級社会になりつつある
ペーパーテストだけだと、毒親に教育虐待を受けて、本人も性格が壊れているような人材が合格しちゃうからな
そういう異常家庭に育ったテストマンが不要なんだよ
だからと言って面接重視だと、虚言癖みたいな別の人格異常者が合格したりする
ちゃんと論理思考力とか評価できとるんかね?
論理を簡単に言い表すのもコミュ力ではあるけど、
ディベートみたいな「尤もらしいこと言って言い包める」
能力を評価しとらんだろうな?
「基礎学力が落ちる」てのはそういうことだろ。
>面接や小論文などを課すところが増え、いわゆるコミュニケーション能力(コミュ力)が強く問われるようになっています
わかってねーなー
コミュ力とは違うんだよ
むしろ調子物故いてるだけのやつとかは落とされる
その学力がある人は何割いるか分からない
そのとおり。だけど勉強すら出来ない奴は間違いなく落ちる
だから最低限の義務教育がある
脊髄反射で話してるから考えてねーし嘘が息を吐くように出てくる
子供の頃から、町内会のお手伝いでもさせておけよ。
そこからが先ず人の繋がりとかだろ?
貧富さ云々よりも、親の不精が全てだよ、こんなのは。
町内会だと子供はお客さんかつ人質みたいなもんだな
たしかに
引用元:【大学入試】コミュ力重視の入試で起こっていること。格差以前の問題点とは [七波羅探題★]
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