【日韓歴史】 「千字文伝えた」日本人に仰がれる王仁博士は、馬韓人…上野公園の碑、「内鮮一体」意図の疑いも

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【日韓歴史】 「千字文伝えた」日本人に仰がれる王仁博士は、馬韓人…上野公園の碑、「内鮮一体」意図の疑いも

1: LingLing ★ 2023/02/05(日) 22:45:17.09 ID:dt3t51oP
[無等の朝]「日 千字文伝えた王仁博士は『南道人』…馬韓6世紀中葉まで存在」
-「日本に千字文・論語伝えた王仁博士…」日本史書にのみ生存当時の記録が伝わり」
-「王仁渡日時期、4世紀後半から5世紀初め推定…日本の記録も互いに異なり」
-「東京上野公園に王仁博士碑…墓・祠堂など随所で追慕の跡」
-「栄山江流域の馬韓6世紀中葉まで存在…王仁博士は百済ではなく馬韓人」

◇ ユン・ジュソンアンカー(以下ユン・ジュソン):南道の歴史を楽しく聞く時間です。ノ・ソンテのストーリーで聞く南道の歴史、今日も南道歴史研究院ノ・ソンテ院長に来ていただきました。こんにちは。

◆ 南道歴史研究院ノ・ソンテ院長(以下ノ・ソンテ):こんにちは。

◇ ユン・ジュソン:今日の話の主題は何でしょうか?

◆ ノ・ソンテ:1600年前の人物の話です。論語と千字文を持って日本に渡り、今日の日本人たちから学問の神として推仰を受ける方がいます。リスナーの皆さんの中に感づいた方がいるか分かりませんが、王仁博士がその方なんです。今日は全羅南道(チョルラナムド)霊岩(ヨンアム)鳩林(クリム)村出身として知られている王仁博士の話をしたいと思います。

◇ ユン・ジュソン:日本に論語と千字文を伝えた王仁博士の話ですが、ところで王仁博士に関する記録が私たちの史書には残っていないと聞きましたが、なぜそうなんですか?

◆ ノ・ソンテ:私たちの史書には朝鮮後期、18世紀後半にハン・チユンが書いた「海東歴史」が初めて目に入ります。そして彼の出生地として知られる霊岩郡の郷土誌に、その後収録されています。ですから、当代の王仁博士に関する記録はないとみれます。これに対し、日本側の文献記録には相当多くの王仁博士の記録が残っています。

◇ ユン・ジュソン:私たちの歴史書には残っていないのに、日本の歴史書に多く残っている理由は何ですか?

◆ ノ・ソンテ:私の考えでは、王仁が私たちよりも日本人にとって意味のある方だったからではないかと思います。韓末に米国から来た医療宣教師アレンという方、学校に通っていた時に教科書に載っている方ですが、この方はアメリカの教科書には載っておらず、韓国の教科書には載っている方ですよね。我が国に来て、もちろん公使としても活動しましたが、韓国に初の西洋病院である済衆院(チェジュンウォン)、現セブランス病院を設立した方として有名です。とにかく、王仁が韓国より日本で多くの記録が残っているのも、アレンのように韓国人よりも日本人にもっと大きな影響を与えたからだと思います。

◇ ユン・ジュソン:王仁博士は日本にいつ渡ったのですか。

◆ ノ・ソンテ:日本の歴史書でも渡った時期に若干差異があります。先ほど「日本書紀」の話を少ししましたが、「古事記」は8世紀初めに記述された歴史書なんですが、「古事記」を見ると百済の照古王が賢人を送ってほしいという日王の要請を受け入れて、和邇、日本の発音で「ワニ」なんです。 ワニという人物を送って論語10巻、千字文1冊巻を渡した、こうなっています。「日本書紀」によると、応神天皇16年6月に、日王の要請で百済の王仁が到着し、太子の師匠となったと、こう記されています。

KBSニュース(韓国語)
https://n.news.naver.com/mnews/article/056/0011420386

引用元:https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1675604717/


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