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『金屏風会見』は何だったのか?中森明菜の自殺未遂報道に隠された真実
中森 明菜(なかもり あきな、1965年7月13日 – )は、日本の歌手、女優。本名同じ。1982年5月1日デビュー。人気の点では松田聖子と並ぶ1980年代アイドルの双璧として、数多くのヒットナンバーを世に送った。アイドルの当たり年と言われた1982年のデビューで、82年組の1人である。芸能界では松田聖子の後輩に当たる。
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ジャニーズ事務所の”長男”だった近藤真彦が、4月いっぱいで退所することが発表された。これまでの彼に対する事務所の”過保護ぶり”を知るものにとっては、何だか隔世の感を禁じえない。
近藤といえば、‘87年『第29回日本レコード大賞』において「愚か者」で大賞を受賞。まさにジャニーズ事務所を発展させた功労者の一人であることは、誰もが認めるところだろう。
だが、昨年11月に『週刊文春』が25歳年下の女性社長との5年に及ぶ不倫関係をスクープ。その責任を取る形で、芸能活動を自粛していた。
だが、これまで事務所の“長男”という位置づけだった近藤は、当然、他のタレントとは別格の扱いだった。‘15年に起こったSMAP独立騒動の際、事務所内の序列について聞かれたメリー喜多川副社長(当時)は、記者に対し
「うちのトップはマッチです」
と断言した。SMAPや嵐などの人気グループを差し置き、事務所の実力者がそう間髪入れずに答えたことに、彼女の寵愛ぶりがうかがえた。
そんなジャニーズ事務所が近藤のピンチのため、まさに“事務所総出”で対応した一件があった。それは昭和が終わった半年後、平成元年の夏のことだった…。
芸能ジャーナリストの佐々木博之氏が2019年5月に執筆した記事を再掲する――。
◆交際がご法度とされていた時代に
夏と言っても、そのころの東京は猛暑日になることは少なく、夜になれば心地よい風が吹く日もあった。“明菜緊急搬送”の一報が『FRIDAY』編集部に入ったのはそんな日の夜だった。
《「恋人」マッチの自宅浴室で「自殺」はかり…明菜哀し!鮮血に染まった「愛」の行方》
当時発売された『FRIDAY』にはこんな衝撃的なタイトルが踊っていた。そして記事はこんな書き出しで始まっている。
《その119番通報があったのは、7月11日の午後4時49分。「中森明菜さんが左手を切ってケガをしています」。電話の主は近藤真彦(24)自身だった。救急隊員が東京・港区のマッチの自宅マンションに駆けつけたとき、中森明菜(24)は居間に寝かされていた傷は左腕関節内側を安全カミソリで切ったもの》
この日、明菜は仕事がオフ。運転免許の更新をしたあと、近藤のマンションに出向いたという。一方、近藤は地方での仕事を終えて、自宅に戻ってきたところ、浴室で血を流して倒れている明菜を発見。彼女は救急車で慈恵医大病院に運ばれ、緊急手術がなされたが、命に別状はなく入院2週間と診断された。
“明菜自殺未遂”の情報は全マスコミに伝わり、病院にはテレビの中継車や記者が続々と詰めかけた。ただ院内に入ることは許されないので、記者たちは明菜が入院したとみられる病室の窓をじっと見ているしかなかった。
明菜の姿を捉えようと、その日から連日、記者たちは病院近くで待機することになったのだが、すきを見て退院したのか、明菜は忽然と姿を消してしまったのだ。
アイドル同士の交際が御法度とされていたこの時代に、ふたりは6年間もの交際を続けていた。何度となく結婚の情報が流れ、この翌年に某テレビ局が二人の結婚式を生中継するという話まで出ていたほどだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/18b135ccfaf9d48f746953d43cb52e6076bdb545
4/30(金) 21:32配信
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中森明菜 – セカンド.ラブ
あなたのポートレート 中森明菜
(出典 Youtube)
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中森明菜 1989 04 「LIAR」