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中森明菜、新ファンクラブ発足で肉声公開も“元恋人”の前事務所マネージャーへの不満が噴出
1: 冬月記者 ★ 2023/01/07(土) 22:28:01.37 ID:Y5y4TASA9中森明菜、新ファンクラブ発足で肉声公開も“元恋人”の前事務所マネージャーへの不満が噴出《応援してくださるファンのみなさまへ。先日はいきなりのお手紙でびっくりさせてしまってごめんなさいっ! 信じて待ってくださり、本当にありがとうございました》
’22年も、あと数日で終わりを告げようとする12月下旬、中森明菜の公式ツイッターが更新された。
「明菜さんは’22年8月に突然、ツイッターアカウントを開設。新しい公式サイトも立ち上げ、新たな個人事務所への移籍を報告し、再始動することを宣言しました。ただ、その後しばらくは何の動きもないままでしたが、12月24日のクリスマスイブに公式サイトをリニューアルしたことを発表。27日には新たなファンクラブも発足させました」(スポーツ紙記者)
さっそく“新”公式サイトをのぞいてみると、新たに撮影されたと思われる明菜の近影写真が掲載されている。
「最後にファンの前に姿を見せたのは’17年に開催したディナーショー。当時は“自虐トーク”が目立って、無理して歌っているのではと心配する声もありました。新たにアップされた写真を見ると、顔は少しふっくらしたような印象で、体調が回復してきた証しかもしれません。年末の紅白での復帰はありませんでしたが、やっと動き始めたなという感じですね」(同・スポーツ紙記者)
明菜の恩人・音楽プロデューサーの寺林晁さんの逝去で
“伝説の歌姫”の復活が待ち遠しいけど、それはまだ先になりそう。というのも、こんな話がある。
「’22年11月28日に、明菜さんの恩人である音楽プロデューサーの寺林晁さんが77歳で逝去されました。葬儀は12月に執り行われましたが、明菜さんは参列されなかったようです。明菜さんにとって恩人といえる人は何人かいますが、寺林さんは“恩人中の恩人”だったのに……。まだ人前に出られる状態じゃないのかと思いました」(レコード会社関係者)
寺林さんは、明菜を売り出し、彼女の窮地を救ってきた。
「寺林さんはワーナー・パイオニアで、明菜さんのデビュー当時から彼女の制作宣伝を統括。明菜さんがワーナーを離れてからも親交は続き、所属していたレコード会社から契約解除された後の’02年に明菜さんがユニバーサルミュージックと契約できたのも、寺林さんの尽力があったからだそうです。寺林さんは晩年“もう1度、俺が明菜を手がけたい”と語っていました。明菜さんも“寺林さんなら、ぜひ”とプロデュースを希望していたそうなのですが……」(同・レコード会社関係者)
体調が今も思わしくないのだろう。歌手として長きにわたって支えてくれた恩人との別れにも姿を見せなかった明菜だが、ファンに向けては5年ぶりとなる“肉声”を発信していた。
「新しいファンクラブには、すぐさま入会しましたよ!」
弾む声でそう話すのは、往年の明菜ファンの男性だ。
元恋人のマネージャーはサイトの引き継ぎをさせずに
「’22年の12月27日に、明菜ちゃんのボイスメッセージがファンクラブ限定サイトで公開されました。本当に久しぶりとなる明菜ちゃんの声に癒されました。元気でよかった~って。メッセージは“みんなと一緒に集える場所をつくっていきたい”ということと、復帰への歩みは“スローモーションって感じになってしまう”と話していました。元日には、明菜ちゃん直筆のメッセージもアップされていました」(同・ファンの男性)
’82年のデビューシングル『スローモーション』にかけて、改めて“復帰はまだ先”と念押ししたが、そういえば旧ファンクラブはどうなったのか? 旧公式サイトを確認すると、すでにアクセスできない状態になっており……。
「’22年の12月に旧ファンクラブから“運営終了のお知らせ”と書かれた書面が届いていました。そこには“新機関への引き継ぎを検討したが、譲渡は困難との結論に至った”“会員には、残りの有効期限分を月割りで返金する”と書かれていました。新事務所になぜ引き継ぎができなかったかの説明もないし、そもそも年会費も’22年の9月分から返金するべきです。明菜ちゃんが移籍して、なんら情報発信をできなかったんですから。前事務所の元マネージャーは明菜ちゃんの恋人だったともいわれていましたが、彼女の旅立ちを応援できなかったのかな……」(同・ファンの男性)
全文
https://news.yahoo.co.jp/articles/c57eab0640d0ce72c661d6cb437dc18adb1e2960?page=1中森明菜
ネットの反応
制限があるのか?色々事情があるんだろーし嫌なら見なきゃいい
ガッ
ファンクラブに入るほどではないけど、応援してる
中森明菜を嫌いな人はあんまいないだろ
いつか地上波で見たい
もう引退状態だと思ってた
ファンは繋がり持ててよかったね
この人若いときの手書き画像どっかで見たことあるけど今回の文章もなんだろうまだ80年代にいるような…10代の女の子みたいな構成なんだね
ファンクラブの会費で食いつないでいるようなもんか
まぁ、それだけ魅力的な歌姫ではあった
それはできない相談ね~
困ってるのだろうか
ファンクラブがデカいね
天地真理でもファンクラブ収益だけで年5000万くらいあるらしいから
運営費を差し引いても派手な生活しなきゃ十分暮らしていける
あんまり周りの人と連絡取り合うの好きじゃない人なのかな
1982年5月1日に発売された。
この日に設定したのは4月21日にデビューし
た石川秀美、さらには5月5日にデビューした
シブがき隊を外したギリギリの選択だった。
「新人の中でも出遅れているのに、ゴールデン
ウイーク過ぎのデビューとなったらスタッフの
モチベーションも落ちてしまう」
とワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージ
ック・ジャパン)で明菜のプロモーションを統
括した寺林晁氏は危惧していた。
が、それは表向きの理由で、実は「日本歌謡大
賞」や年末の「日本レコード大賞」など主要な
「音楽賞」を見据えていたのだ。
「明菜だったら確実に新人賞を狙える」
と確信していた寺林氏にとってゴールデンウイ
ークのデビューが「ギリギリの日程」だと考え
ていた。
回して1億円という巨額の予算を注ぎ込んだ。
そのひとつが音楽業界誌『オリジナルコンフィ
デンス』の誌面を丸ごと買い取っての明菜特集
だったが、さらに学研のアイドル誌『BOMB』
では表紙、巻頭グラビアから特集記事まで約50
ページの大特集も組んだ。
現場のプロモートを担当していた富岡信夫氏は
振り返る。
「テレビの音楽番組は出演交渉してもダメでし
たし、芸能誌でも『平凡』や『明星』といった
雑誌からは相手にもされませんでしたから、手
段なんて選んでいられなかった。それでも知名
度は低かったと思いますね」
というが、一方で
「発売日が近づくにつれ、レコード店の販売担
当者からの反応は高まっていった感じでした」
「やはり『スター誕生!』出身は大きかった。
あの番組からは実績のあるアイドルが多数生ま
れていたので、明菜にも信用というか信頼があ
ったのだと思います」
た。デビュー曲はオリコン・チャートで初登場
58位(82年5月10日付)だった。
寺林氏は、思わず目を疑った。
「何かの間違いじゃないか?」
しかし、その数字には間違いがなかった。
「事務所(研音)から呼び出されて怒鳴られま
したよ。どうなっているんだって。ただ、何言
われても自分の戦略には間違いはないと思って
いましたけどね」
寺林氏は諦めてはいなかった。現場の富岡氏も
同じで、明菜には自信を持っていた。
富岡氏はデビュー後、金曜日になると全国のワ
ーナー営業所やレコード店、さらにメディアに
向けて自ら編集した「明菜新聞」を出し続けた。
いと思っていましたから。ただ、デビュー後は
アルバムのレコーディングなどで結構、慌ただ
しかった。
ジャケット撮影ではグアムに行きました。その
頃はまだ水着の写真も撮っていましたからね。
『明菜新聞』は毎週でしたがネタは多かった。
もっともメディアがどれだけ明菜に関心をもっ
たかは疑問ですが…。でも、レコード店から
『応援しています』との声が多く届いたことが
一番の励みでしたね」
そんな中で「絶対にイケる!」との感触を感じ
たのは、キャンペーンの際の反応や動員だった。
デビュー後の明菜人気は着実に高まっていた。
1983年、デビュー2年目の中森明菜は、
シングル『禁区』でこの2つの音楽イベント
に明け暮れる年になった。
「言うまでもなく『レコ大』と『紅白』では、
スタッフの間でも立場によって大変さが違い
ました」
というのは、ワーナー・パイオニア(現ワー
ナーミュージック・ジャパン)邦楽宣伝課で
明菜のプロモーターを担当していた田中良明。
両者の違いについて、
「『紅白』は、その年における明菜の評価で
すから、楽曲での実績からも対策の必要はな
かったのですが、『レコ大』は、宣伝を担当
してきたわれわれの力を試される場でした。
しかも上司で明菜の制作と宣伝を統括してい
た寺林晁さんのレコ大に向かう執念はすさま
じいものがありました。明菜で大賞を目指す
ことが次の年の新人につながっていくのだと
いわれました。
たですからね。そんな社内事情もあったのは
確かです。なので明菜に賭けた部分が大きか
ったのですが、一番大変だったのは音楽評論
家や新聞社、音楽関係者など審査員の人数が
とにかく多かったことです。おそらく現在の
3倍はいたんじゃないですか。
経験の浅いわれわれのような宣伝マンには審
査員への対策も大変でしたし、いくら働きか
けても票の行方が読めませんでした。ストレ
スもたまるばかりでしたね」
と明かす。
最終的に大賞は狙えなかったが、同賞を放送
していたTBSからの働きもあって「ゴール
デンアイドル特別賞」を受賞した。当時を知
る音楽関係者はいう。
菜の売り上げが全体の4・8%もあったこと
でした。
司会の高橋圭三さんも『あなたが20人いたら
日本のレコード売り上げになってしまうんで
すよ』なんて言い方をしていましたが、結局
は一気に売り上げを伸ばした明菜の存在を無
視できなかった。
何らかの対応をしなければ視聴者も納得しな
いと判断したのでしょうね」
そのうえで
「TBSとしては自局の番組『ザ・ベストテン』
での評価だけは無視できなかったはずです」。
はともかく、2作目の『少女A』で1位こそ
逃したが、続く『セカンド・ラブ』は8週連
続1位、『1/2の神話』は7週連続1位、
『トワイライト-夕暮れ便り-』も競合が多
かったにもかかわらず2週連続の1位、さら
に『禁区』も7週連続1位と圧倒的だった。
「ここまで盛り上がると、さすがに『レコ大』
を中継するTBSとしても立場的にも無視で
きません。
誰から見ても83年を象徴する歌手といえば
明菜を挙げたでしょう」
(前出の音楽関係者)
引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1673098081/