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【韓国絵師】 東洲斎写楽として日本で活動していたという説も…キム・ホンドの朝鮮ルネサンス
檀園キム・ホンドは当時最も有名な人たちから認められた。彼の作品は中国に寄りかかり中国式の絵画を再現することにとどまるのではなく、当時流行した写実的文学理論を絵画で伝える役割もした。そうして作られたのが風俗画だ。写真が発達した現在、風俗画の形に感興を覚えづらいが、当時の一般人が暮らしていく様子を絵に残す試み自体が破格だった。
カン・セファンの助けでキム・ホンドは図画院の書員になった。図画院は国家が管掌する宮中画家管理所だった。宮中の多様な記録的絵画を描くこともあって、写真がなかった時期に、文で全て整理できないもう一つの記録を主管する場所でもある。ここでキム・ホンドは絵を描きながら多様な先進絵画に触れるようになる。元々、優れた絵の腕前を持っていたからそこに引き抜かれたわけだが、1781年には御用画家になって正祖を描くことになった。写実的描写の実力は、旅行に行かなくてもその場所をうまく描き写しておけば、観光に行って来られなかった人にも遠い所の状況を、そのまま知らせてくれる役目をする。キム・ホンドは秘密裏に1789年、日本の地図を描いてくるよう命を受け、師匠のキム・ウンファンと共に、日本密使として向かうことになる。ところが、師匠のキム・ウンファンは病気で亡くなって、一人でテマド(※対馬島)に行って地図を描いてきた。一種の日本に対する偵察が主要目的だったようだ。キム・ホンドが日本に行くことになったのは事実に符合するが、優れていた彼の事件を通じて新たな仮説が出ている。
日本の代表的絵画と称する絵が「浮世絵」だ。日本料理店に行くとよく見かける侍の姿や、富士山の様子を版画で表現した絵画が浮世絵だ。このような浮世絵の最高峰に挙げられる人が「東洲斎写楽」だ。彼は突然現れると、10ヵ月間で140点ほどを描き、こつ然と姿を消した。 そのため、彼は芸名を使って絵を描いて消えた、あるいは他国の人が来て絵を描いて消えた、という話で実体のある伝説になっている。彼の活動期間は1794年5月から1795年2月までだ。キム・ホンドは足の指が6本だったという説があるが、写楽も足の指が6本だという説、日本に行った期間と完全に合致はしないが近い時期に日本にいたことから、一部の仮説には、キム・ホンドが芸名で10ヵ月間日本で活動して帰国したという説もある。キム・ホンドの晩年に記録がないということも、日本に行き活動し、そうしていたのだろうという推測と想像から、事件を事実のように重ねてくれる。
キム・ホンドは1791年に正祖の肖像を描き、この功績が認められると、忠清北道(チュンチョンプクト)槐山(クェサン)延豊(ヨンプン)の県監(※朝鮮王朝の官職)に就くことになる。忠北にいる間、忠北の名勝を振り返り、彼の特別な才能を余すところなく発揮して、1796年に「丙辰年図帖」(文化財、第782号)を作った。20面からなる図帖は丹陽(タニャン)八景の舎人岩(サイナム)を描いたもので、嶋潭三峰(トダムサンボン)、永郎湖(ヨンナンホ)などの風景、山水人物画、花鳥画など多様な絵画を描いた。
延豊(ヨンプン)は今でもそうだが、過去もさほど大きな都ではなかったところだ。日照りで凶作が続くと、官衙(官庁)が穀物を分けて穀率に力を入れたと言ったが、これを貶す群れが別の話で彼を陥れた。百姓たちの仲媒にだけ神経を使い、若い兵士たちには狩猟をさせることに熱中するという謀略から官職を退くことになった。そして本業である絵を描く仕事をまたした。1800年、正祖が崩御し純祖が王になり、キム・ホンドもやはり重要な用務から外され、寂しい晩年を過ごすことになった。
西洋も朝鮮も新しい思考は過去に対する新しい解釈に基づいて出てくる。新しい文化は空から落ちてくるのではなく、長い時間日常が作ってきた生き方を他の世代が異なる視点から眺めながら整えて作ることだ。キム・ホンドが有名になって延豊(ヨンプン)の県監に短期間就いていたにせよ、地域に埋没して観光商品を作ることより、その精神を取り戻して光を照らすのがルネサンスの解釈により近いものになるだろう。地域の文化ルネサンスは、精神を取り戻すことをまずしてほしい。
忠北日報(韓国語)
https://www.inews365.com/news/article.html?no=743233