河村建夫といえば当選10回を誇った大物代議士(昨年10月、政界引退)。長く秘書を務めた大物女性秘書・中内セツ子さん(享年89)の死後、中内さんの自宅が何度も河村氏の借金のカタになっていたこと、また中内さんの死後に口座から河村事務所がカネを引き出していたことがわかった。
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知らぬ者はいない、58年間の永田町生活
「どうしてこんな揉め事になるのか、信じられません。河村先生に一生懸命お仕えして頑張ってきたのに、姉がかわいそうでなりません」
ここに登場する「河村先生」とは、文部科学大臣、官房長官などを歴任し、衆議院当選10回を誇る、元代議士・河村建夫氏のことである。昨年10月の衆議院選挙には立候補せず、政界を引退した。
冒頭のように苦しい胸の内を語っているのは、河村氏を初当選以来、秘書として
支えてきた中内セツ子さんの実妹ら遺族たちである。
中内セツ子氏といえば、1963年に故・田中龍夫元文部大臣の秘書を務めて以来、なんと58年にもわたって議員会館で秘書として勤務していた、永田町では知らぬ者はいない名物秘書だった。自民党のベテラン秘書が語る。
「そりゃあ、もう名物ですよ。80才を過ぎても議員会館の河村事務所に陣取っていましたからね。安倍元首相が河村先生の事務所にわざわざ立ち寄ると、真っ先に中内さんに挨拶していました。『あら、しんちゃん』って中内さんは応えていた
河村氏と中内さんはまさに二人三脚でした。田中氏の引退後、選挙区を引き継いだ河村氏の秘書に就き、河村氏を官房長官にまで押し上げたのは中内さんの手腕でもあった。
80才を超えても、元気で秘書を続けていた中内さんは、文字通り、自民党の名物秘書で、女傑のような存在でしたね。中内さんは気が強くて豪気な女性でした。河村先生と意見が違っても『先生、おかしいでしょ! 』『こうしなきゃ! 』と、仕える先生を説得するような人でした。
私も20年以上前のことになりますが、中内さんが河村先生に『選挙が近いんですから、この日は地元帰りですよ』と、母親が息子に忠告するような場面を今でも思い出します」
山口県選出の田中元文部大臣から地盤を引き継いだ河村氏を支えた中内さんは、58年間の永田町生活のなかで2人の大臣を生み出したことになる。
生涯現役だった中内さんは、河村氏の政治団体の収支報告書の会計責任者の欄に2019年分までサインがある。だが、2020年12月に脳梗塞を発症し、入院。2021年8月21日に亡くなった。享年89だった。
中内さんの実妹が証言する。
「姉は早稲田大学を卒業した後、父親の知人の化粧品会社の社長秘書として勤務していました。しかし若いときから『一生結婚しない』と家族にも公言し、もっと自分がやれる仕事があると秘書に公募した先が、田中龍夫先生の事務所でした。1000人の中から1人だけ選ばれたといいます。姉は、本当に強くて情にもろい、政治家のような人でした」
実はいま、中内さんの実妹ら遺族と、中内さんの勤務先であった河村氏との間に摩擦が生じている。
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現代ビジネス
11/27(日) 6:03
https://news.yahoo.co.jp/articles/eda5c2ab007f2f7dd915060da1f436677ed8c375