苦渋の立浪監督「お前、変わらんかったな」 中日去る京田が受け取った“最後の親心”

苦渋の立浪監督「お前、変わらんかったな」 中日去る京田が受け取った“最後の親心”

苦渋の立浪監督「お前、変わらんかったな」 中日去る京田が受け取った“最後の親心”

1: 名無しさん@恐縮です 2022/11/19(土) 11:56:28.71 ID:uD14vyVJ9
 良くも悪くも自由な秋に、“予感”を抱いた。中日での6年目のシーズンを終え、秋季練習は全体練習に入らず調整を一任された。「フリーという話で。あるなぁという感じはありました」。頭をよぎるトレード。京田陽太内野手は、心の準備を整える。その瞬間は、すぐにやってきた。

 いつから歯車が狂ったのだろうか。低迷するチームを変えていく旗振り役になるはずだった。プロの世界に飛び込んだ2017年は、球団新人記録を塗り替える149安打を放って新人王を獲得。一気にレギュラーをつかんだ。翌2018年には全143試合に出場。負担の大きな遊撃手だからこそ「しっかり守る」「試合に出続ける」には誰よりもこだわってきた。

 打撃を疎かに考えたことはない。課題だった出塁率も改善していった。ただ、ルーキーイヤーの鮮やかな印象を、どうしても上書きできない。打率は2割5分を超えず、周囲から盛んに「打てない」と言われるように。プロ5年目の2021年には、初めて2軍降格を味わった。

 納得できない気持ちもわずかに湧いたが、すぐに自らを省みた。「これじゃダメだ」。2軍の打撃コーチに積極的に意見を求めながら、自分の感覚と照らし合わせていった。シーズン終盤の9月には月間打率.309を記録。「自分の中で手応えがあって、次の年が楽しみな部分もありました」。その時はまだ、最悪のシーズンが待ってるとは思いもしなかった。

 立浪和義監督が就任した2022年。首脳陣とコミュニケーションをとりながら、昨季に手応えを得た打撃フォームを思い切って捨てた。目先の1安打ではなく、数年後でも揺るがない地位確立のための決断だった。「練習ではいい形で打てるときもあったんですが……」。振っても振っても、どうもしっくりこない。すぐに開幕はやってきて、打率は1割台を推移していった。

 徐々にスタメンから外れる試合が増えると、全うしてきた信念が揺らぐ気がした。「やっぱり、一番は試合に出たい」。いつフィットするか分からない打撃に、何試合を犠牲にすればいいのか。そんなことばかり考えていると、守備に綻びが出た。5月4日のDeNA戦(横浜)。試合中にもかかわらず、指揮官から名古屋へ帰るよう告げられた。

 新幹線の車中で自らの未熟さを受け止め、自宅に着くころにはひとつの答えを出していた。「いい意味で、好きなようにやろうと思いました。僕の野球人生です」。教えられたままやっていると、結果が出なかった時に首脳陣のせいにしてしまいそうな自分が嫌だった。ダメでも自己責任。アドバイスには耳を傾けつつも、取捨選択しながら自分の感覚を信じた。

 その姿が、指揮官の目によく映らなかったのは当然。「根気よくやっていこう」という約束を破ったと思われたに違いない。6月に1軍に再昇格したが、快音が数試合止まると再び2軍へ。8月に1軍に呼ばれた時には、いきなりほとんど守ったことのない二塁で起用された。自己ワーストの43試合出場。レギュラーの座も、信頼も失った。

 秋風吹くナゴヤ球場。監督室で、立浪監督と向き合った。「トレードな。横浜が欲しがってるから」。伝えられた事実に、思いのほか驚きはない。淡々と諭すような指揮官の口調は、むしろすっと胸の奥に届いた。

「ずっと頑固やったな。なんでそんなに頑固なんや? 去年の秋から言ってきたけど、お前変わらんかったな」

 異論はない。変われなかったのは自分。むしろ、一野球人として環境を変える決断をしてくれた立浪監督の“親心”に感謝した。その場で多くの言葉を発することはせず、「ありがとうございます」と一礼して監督室を出た。

 後ろ髪を引かれる思いがないといえば嘘になる。名古屋に住み、結婚し、2人の子宝に恵まれた。ナゴヤドームのスタンドを見ると、背番号1のユニホームがよく目に留まった。選手会長を務めて3年。低迷期からの脱却は果たせず、志半ばで竜を去る。

以下略全文
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d07cc0153de4f46ad4872f982a3650924ecbaed
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d07cc0153de4f46ad4872f982a3650924ecbaed?page=2



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