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【韓国】「孤児の母」韓国で孤児3000人超育てた日本人 生誕110年で式典
1912年に高知県で生まれた田内千鶴子さんは、7歳の時から韓国南西部のモッポ(木浦)で暮らし、結婚を機に現地の児童福祉施設「共生園」の運営に携わるようになりました。
その後、朝鮮戦争による動乱で、夫が行方不明になったあとも運営を続け、56歳で亡くなるまで3000人を超える孤児を育て、韓国では「孤児の母」と呼ばれています。
今月31日で生誕110年となるのを前に、28日にモッポで記念式典が開かれ、両国の関係者や市民など、およそ750人が出席しました。
式典では、ユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領のメッセージが読み上げられ、ユン大統領は「激動の中でも、子どもたちを守ろうとした田内さんの愛と献身は、日本と韓国の国民の心を動かした」として功績をたたえました。
田内さんの長男で「共生園」を運営する団体の代表を務める、ユン・ギさんは「いまも田内千鶴子のことを覚えてくれているモッポ市民に感謝しています。こういう市民の心が、日本と韓国の交流の小さなきっかけになればと願います」と話していました。
「孤児の母」田内千鶴子さんとは
田内千鶴子さんは、1912年、高知市に生まれ、7歳の時に父親が勤めていたモッポに移り住みました。
地元の学校を卒業して音楽教師をしていた田内さんは、児童福祉施設「共生園」のことを知り、歌を教えるボランティアを始めます。
その後、千鶴子さんは、施設を運営していたユン・チホ(尹致浩)さんと結婚し、夫婦で孤児たちの面倒を見るようになりました。
夫は1950年に勃発した朝鮮戦争による動乱で行方不明になります。
しかし、田内さんは苦しい生計や反日感情の中、施設の運営を続け、3000人を超える孤児を育て、1963年には外国人女性として初めて韓国の文化勲章を受章しました。
韓国名のユン・ハクチャ(尹鶴子)で暮らした田口さんは、1968年に56歳で亡くなりましたが、市民葬として行われた葬儀には、およそ3万人の市民が集まり、「孤児の母」に哀悼の意をささげました。
田内さんの業績については、1990年代に日韓共同で映画が制作され、両国の多くの国民に感動を与えました。
NHK NEWS WEB 2022年10月28日 16時47分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221028/k10013873681000.html