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あっという間に国民から見放された…支持率7割で始まった民主党の政権交代が大失敗に終わったワケ
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※本稿は、倉山満『沈鬱の平成政治史 なぜ日本人は報われないのか?』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
■「政権交代」が民主党の唯一の政策だった
平成21年9月16日、鳩山由紀夫内閣が発足します。民主党政権に交代した原因である経済状況の悪化は、引き続き大きな政治課題です。
民主党が福田康夫に押し付け、麻生太郎内閣で日本人を地獄に落とした、白川方明日本銀行総裁は、民主党政権でも居座り続けます。
民主党が愚かだった第一です。この人たちは、党利党略がわかっていなかった。
もし民主党が政治や経済の何たるかを理解していれば、即刻、日銀法を改正。総理大臣による総裁罷免権を復活して、白川を馘首。まともな人材を据えたでしょう。仮に、鳩山首相が即座に黒田東彦のような人を日銀総裁に据えていたら、景気は爆上げ、自民党など跡形もなくなっていたでしょう。
しかし、「政権交代」が唯一の政策であり結集原理である民主党にマクロ経済政策の要諦など、わかっていませんでした。
■着々と準備を整える財務省
行政経験も無く、政治の素人である民主党に霞が関の全省庁が振り回される中、唯一の例外が財務省です。早くから民主党政権の成立を見越し、人員を配置していました。財務省は、平成21(2009)年7月14日に発令された人事で、民主党政権を見越した配置を行います。
麻生内閣が衆議院解散を行う1週間前のことです。事務次官には小泉内閣の懐刀と言われた丹呉泰健が昇格しますが、次の事務次官になる主計局長は勝栄二郎です。次いで事務次官昇格に近い順に、官房長が真砂靖、総括審議官に香川俊介が配置されました。
香川は竹下内閣当時、官房副長官だった小沢一郎の秘書官となって以来、小沢の信頼が厚かった官僚です。翌平成22年7月30日、勝が主計局長から財務事務次官に昇格し、野田内閣まで続く体制ができました。
民主党政権は「国家戦略会議」を嚆矢(こうし)に次々と会議や組織を立ち上げますが、そのすべてに財務省は人員を送り込み、自分たちが仕切る体制を作り上げます。その頂点に君臨したのが、勝栄二郎財務事務次官。事務次官など普通は1年、長くても2年で辞めるのですが、勝は民主党政権の大半で留任します。この人、緊縮財政の権化であり、増税原理主義者です。
現在、「どうして財務省は増税ばかり言うのか」と疑問を持つ人もいるでしょう。財務省が現在のようになったのは、それほど古い時代の話ではありません。
■増税さえできればなんでもいい
財務省が「増税省」となるのは、勝の時代からです。
元々、大蔵省は高度経済成長に賛成していた役所でした。大蔵省が増税止む無しとなったのは石油ショックに苦しんでいた大平内閣からですが、経済成長を犠牲にせずにいかに増税するかというのは、大蔵省から財務省に至るまで共通認識として持っていました。
竹下内閣で消費税を導入できたのは、バブル経済に沸いていたからで、所得税減税などと一体化の政策でした。なんでもかんでも増税だけすれば良いのなら、こんな頭を使わない話はありません。歴代大蔵官僚は増税の必要性を訴えつつ、景気との兼ね合いに苦しんでいました。また、バランスをとってもいたものです。
たとえば、十年に一度の大物次官といわれ、日銀副総裁を務めた武藤敏郎が財務事務次官だった時には、朝に産経新聞で上げ潮を説き、夕方に日経新聞で増税を説くような人でした。「バランスの武藤」と呼ばれ、財政再建論者だった与謝野馨と親密でありながら、後のアベノミクスのようなことを説いていたデフレ脱却議連の第一回講師を務めるような感じです。
それが勝の時代になり、増税の意味が決定的に変わります。言ってしまえば、「増税さえできればなんでもいい、特に消費税」という時代の到来です。
■政治主導を目指したが…
選挙で「政権交代」だけを言い続けた民主党は、いざ政権交代をしてみると、今度は官僚の言いなりにならないことが唯一の共通認識になりました。
その結果、鳩山・菅の二代の内閣で霞が関のルーティンが大混乱に陥ります。内閣が決定した政策の実務面を省庁横断で調整する事務次官会議を廃止し、官僚の仕事を自分たちでやろうとします。
とは言っても、民主党の政治家だけで政府の実務を運営できるわけではありません。挙句の果てには、政務三役が自分でパワーポイントの資料を作成していたとか、某大臣が官僚との昼食会を全員で割り勘にしたなどというバカバカしい逸話が山ほどできてしまう有様です。
内閣法制局長官の国会答弁を廃止してみたはいいけれども、閣僚が自力で答弁できるわけではないので、結局は元に戻すことになるなど、右往左往するわけです。一事が万事、この調子です。
自民党は徹頭徹尾、官僚の振り付けで踊るのが上手な政党でした。民主党政権はそれを否定しようとして、単に踊れないだけの無能者と化してしまいます。ほどなくして政権運営につまずきます。その結果、徐々に民主党は官僚依存に傾いていき、自民党以上の官僚政権に戻っていくこととなりました。
最初からそれを見越して準備していたのが財務省です。
■できもしないことをやろうとして自爆した
象徴的な光景があります。平成22(2010)年1月26日の参議院予算委員会でのことです。
菅直人財務大臣は、自民党の林芳正議員から「乗数効果」について質問されて、何も答えられませんでした。以後、財務省に頼りきりになったとか。
野田内閣の頃に流れた怪文書です。「財務省は歴代大臣を洗脳するのに、菅直人は3カ月、野田佳彦は3日、安住淳は30分」とか。この数字、色々入れ替わっていますが、「菅>野田>安住」の順は一緒です。ひどいバージョンになると「安住大臣は3分」です。
しかし、日銀の某企画担当理事は民主党の部会に来て経済が専門の議員から「ナイルについてどう思うか」と聞かれ、何のことか知らなかったとか。
NAIRU(Non–Accelerating Inflation Rate of Unemployment)とは、自然失業率のこと。一定の水準で必ず出てくる失業者の比率です。将来の日銀総裁を嘱望されるような人が、経済の基本的な用語を知らなくて済むのでしたら、政治家である財務大臣が乗数効果を知らなくて何が問題なのかと思いますが。専門の行政は官僚がやればいいのであって、政治家は官僚を使いこなすのが仕事ですから。
民主党が愚かだったのは、官僚を使いこなすのに、官僚の仕事を官僚以上に詳しくなければならないとの強迫観念を抱き、できもしないことをやろうとして自爆したことです。
政治家が官僚の仕事に官僚より詳しくなければならないなら、法務大臣は起訴状を書けねばならないのでしょうか。そんなはずがありません。法務大臣が付き合う法務官僚は検察官の資格を持っていますから、起訴状を書けます。政治家の仕事は別にあるはずです。
■政治家の仕事が何なのか、わかっていない
官僚がいいように政治に介入することを許した原因は、民主党政権に「政権交代」以外にひとつにまとまる政策がなかったことが挙げられます。そして政治家がなすべき政策をまるで研究していなかった。
選挙公約には「子ども手当をバラまく」「出産手当をバラまく」「高速道路の無料化」等々、できもしない公約を並べ立てましたが、政権交代への期待値だけを上げました。財源は「埋蔵金」で、各省庁が隠している無駄な支出です。
そして、蓮舫が「仕分け」と称して各省庁の幹部を呼びつけ、支出の根拠をカメラの前で追及するなどというパフォーマンスを繰り広げました。こんなの、財務省主計局の係長の仕事です。政治家の仕事が何なのか、わかっていない。
民主党政権は、国民新党・社民党との連立政権です。彼らの意見も聞かねばなりません。連立政権をうまく生かすには、どういう政策のとりまとめを行えばよかったのか。言ってしまえば、連立政権で共通の政策はいくつであるべきなのか。憲政史を振り返ってみましょう。
■連立政権で共通政策はいくつあるべきか
戦前は大正時代の加藤高明内閣、戦後は平成の細川護熙内閣が参考になります。それぞれの連立内閣が掲げた政策は、加藤内閣のときは二つ、細川内閣のときには一つです。
加藤高明内閣は、選挙で選ばれていない藩閥官僚による専横や、貴族院から内閣首班が出たことへの批判から、憲法が求める政治をせよという憲政擁護運動が盛り上がって成立しました。
衆議院の政党がまとまって、政党内閣樹立を目指します。大正13(1924)年5月10日の総選挙で憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が勝利をおさめ、連立内閣が成立します。
加藤率いる憲政会の公約は、政治改革の男子普通選挙制導入と行財政整理(現在で言う行財政改革)です。ところが男子普通選挙の導入をしたところで、護憲三派内閣は瓦解しました。政治改革はできたけれども、行財政改革の方が揉めて潰れたのです。
結局、合意できた政策は一つです。政友会が倒閣運動を始め、憲政会は野党に転落します。ただ憲政会は、他党を糾合して民政党へと成長し、政友会とともに戦前の二大政党の一翼を担いました。
細川護熙内閣の場合は政治改革だけでまとまっていて、政治改革関連法案が成立すると即座に崩壊しています。細川の日本新党は、内閣成立段階では衆議院の小規模政党です。地方への浸透の可能性を持つ新進党が結成される前に政権から転落し、生き残れませんでした。
■マニフェストは「やりたいと思いついたもの一覧」
では民主党はどうかといえば、連立に共通する政策はゼロなのです。
マニフェストではできもしない公約の列挙。「コンクリートから人へ」など心地よいスローガンが国民に浸透します。より細かいインデックス(政策集)の方は、さらに無茶苦茶です。
平成21(2009)年版の民主党インデックスには、およそ350もの細かな項目がずらりと並んでいるだけで、いずれも行政課題です。政治的に何を目指すのかが分かりません。
政府としてどのような国家の舵取りをするのか読み取ろうとしても、NPO法人の活動拡大や国際機関頼みだったり、日米同盟を対等なものにすると言いながら自衛隊を専守防衛に限ると宣言したり、ただの「やりたいと思いついたもの一覧」になっています。
そして子ども手当や高校無償化、高速道路無料化などは、自民党とさして変わらないバラマキです。
そこで、連立政権がまとまれる政策として無理矢理ひねり出したのが、外国人参政権でした。日本国籍を持たなくても、日本に定住している外国籍の住民に参政権を付与しようというものです。
もっとも急進的な主張では、公務員の国籍要件撤廃が含まれていたり、国政ではなく地方自治体の選挙なら定住外国人が参加してもいいのではないかとされていたりします。つまり、政権幹部全員が唯一賛成できるのが国民全員を敵に回す政策だったのです。
あっという間に国民に呆れられました。
■普天間基地問題で自滅した鳩山政権
党内でも幹部間の対立が激しく、まとまりません。基本的には小沢一郎幹事長と反対派です。それに加えて連立内閣なので苦労が絶えません。国民新党の一丁目一番地は、郵政民営化の骨抜き。小泉純一郎に自民党を追い出された人たちの政党で、これは呑みました。
問題は、対外政策に及んだことです。財政の話は何とかなっても、外国との話は国の死活問題です。こういうところから政治の勉強をしていなかった、している人が党を主導できなかったことが民主党の誤りです。民主党にも安全保障が分かるマトモな人もいますが、正論は通りません。
鳩山由紀夫内閣で特筆すべきは、在日米軍基地の移設問題です。沖縄の普天間基地の県内移設と基地用地の返還は、平成8(1996)年の橋本龍太郎内閣当時の日米合意が基になり進められていました。
平成11年には、沖縄県知事の稲嶺惠一が普天間基地の名護市への移設を発表し、年末には小渕恵三内閣が「普天間飛行場の移設に係る政府方針」を閣議決定しました。
ところが平成21年7月、自民党が大敗した東京都議選の直後、鳩山は普天間移設について「最低でも県外」と言い出します。沖縄から在日米軍基地を追い出すどころか、平成17年の「民主党沖縄ビジョン」では「地域主権」の試行として、沖縄で「一国二制度」を推進するとか、在日米軍基地の国外移転にまで言及していました。
■アメリカからも疑念を持たれる
イギリスのロンドンと沖縄を味方につけておけば、地球全域をアメリカの勢力圏に置けるのです。アリューシャン列島からオーストラリアまで、北太平洋の西辺をぐるりと囲む線のちょうど真ん中に位置するのが沖縄です。太平洋に大陸国家を進出させないための要の位置です。
アメリカとしては、日本本土を捨ててでも沖縄を守るぐらい、重要なのです。そこから出て行けというのは、地球全体の軍事バランスを崩すのかと、アメリカの政府高官は鳩山に疑念を抱きます。
実際にはそんな高尚なことではなく、アメリカ側の想定をはるかに超える、恐るべき政権担当能力の欠如でした。
沖縄で反基地運動が盛り上がる中、鳩山内閣成立後には、在日米軍の高官が鳩山に基本からレクチャーする羽目になりました。かつてのソ連、今の中国に対する抑止力から説明された鳩山が言ったのは、「抑止力という言葉の意味がよく分かった」との有名な一言でした。
平成22年5月4日、鳩山は沖縄県知事の仲井眞弘多と会談し、県外移設方針を撤回します。同月28日には改めて普天間基地移設方針と沖縄県民の負担軽減について、連立する社民党が反対したまま閣議決定を行い、反発する福島瑞穂は大臣を罷免されます。
■政権があっという間に崩壊したワケ
これをきっかけに、社民党は連立を離脱しました。政権はガタガタです。鳩山内閣発足時に72%超あった内閣支持率も、この頃には20%に落ち込んでいます。
6月2日、鳩山は退陣を表明しました。沖縄のことで、ここまで政府が振り回された原因は、参議院です。
民主党は参議院第一党ですが、単独過半数には届きません。このため、衆院でたかだか7議席・参院で5議席という泡沫政党であるはずの社民党の言うことを聞かなければならなかったのです。
幹事長の小沢一郎は、参院で社民党を切っても良いように、数を増やす工作はしていましたが、工作の完成と同時に鳩山内閣は崩壊しました。上手く行かなかった決定的な原因は、公明党が自民党と手を切ってくれなかったことです。
公明党は民主党の政権担当能力の欠如を見極め、「連立野党」として自民党に付き合いました。慧眼すぎます。
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憲政史家
1973年、香川県生まれ。中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学。在学中より国士舘大学に勤務、日本国憲法などを講じる。シンクタンク所長などをへて、現在に至る。『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA)、『ウェストファリア体制』(PHP新書)、『13歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)など、著書多数。
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