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【東京新聞】最後の指揮官命令は島民の虐殺だった…元日本兵が書き残した敗戦直後のオーシャン島で起きたこと【オーストラリア側(一応)裏付け資料あり。】
オーシャン島 東京から南東へ約5100キロの太平洋上に浮かぶ、ほぼ赤道直下にある島。キリバスに属し、現地名はバナバ島。産出するリン鉱石の資源的価値から、英国領になった後、太平洋戦争中に日本が占領した。
◆晩年に執筆開始、未完のまま死去
元日本兵は茨城県日立市の関利保としやすさん(1918?89年)。遺族によると、1980年代半ばから執筆に取り掛かり、入退院を繰り返しながら晩年まで書き続けたが、未完のまま89年に死去。焼香に訪れた戦友が未完原稿の存在を知り、2、3ページ書き添えて冊子にまとめた。
「オーシャン島守備兵の参戦記」と題したその手記は、B5判約70ページ。約10部が親族らに配られ、首都圏在住の関さんの妹(85)が本紙に情報提供した。
手記によると、関さんは徴兵検査で合格。1938年に海軍に入り、42年に陸戦隊の一員としてオーシャン島へ上陸した。
当時、オーシャン島は英領で、リン鉱石の採掘が進んでいた。ただ、飛行場のある島でもなければ、大きな諸島でもなく、戦略的に重要な島々からも離れていたため、地理的な価値はほとんどなかったとされる。日本が上陸した際にはほぼ島民しかおらず、無血占領だったという。旧日本軍の目的は化学肥料などに使うリン鉱石の採掘で、海軍陸戦隊や労働者など約600人が常駐したとされる。
◆「早くやれ」と言われて引き金を
同島では、戦局の変化で食糧補給が困難になった43年、独身男性の約160人以外の島民を別の島に移した。残った若者は部隊に配属され、軍事教練を受けた。「人間同士。おのずと互いの心と心は通じた」「道であっても気軽にあいさつする好ましい状況にあった」と関さんは書き残す。
しかし、敗戦を迎えて3、4日たったころ。兵舎に総員20数人が集められ、思いも掛けない命令が小隊長から下る。「残した全島民を今から処分する」「コメを盗んだと理由をつけて後ろ手に縛り、海岸に連行してただちに射殺」「最後の指揮官命令だ。総員心して掛かれ」
関さんは「一人一人の名前や顔まで互いに覚え心が通じ合うほどに親しくなったのに」「胸が急に締め付けられ全身の力が抜け、膝ががたがたと音が聞こえるくらいに震えだし」と当時の心境を表現する。
この命令で約160人が殺害された。このうち、3人に対し、関さんら6人も射手に指名され、士官の「早くやれ」の言葉を受けて引き金を引いた。「ざんきにたえず、知ってるかぎり彼らの名を心の内で呼び、予想もしない命令で尊い命を奪いさり、許してもらえないだろうが冥福を祈るだけでした」
◆「つらいことだが残したい」死の直前まで苦しみ
関さんは「戦時平時を問わず軍人は、上官の命令はすなわち天皇陛下の命令であり絶対的なもの。命令に背いたことをすれば銃殺にあたいした」とつづる。とはいえ、「『(小隊長以上の会合で)多数の人が反対していたら』と今でも思い出すことがある」とも書き残している。
関さんの妹は「『つらいことだが、残したい』と言い、苦しみながら書いていた。死の直前までワープロに向かっていました」と生前の兄を振り返る。めいは「そういった現実が戦時下には存在するという事実が伝われば」と話している。
◆「死の行軍」「ハンセン病」当時の軍隊生活も
(略) 1943年、独身男性以外のオーシャン島民を別の島に移した時のことだ。「人に話せない、悲しい事実がある。一部の兵を含む上司だけが実行者として知っていた」と、他島に移されなかったハンセン病患者とその家族約40人について記している。
関さんは間接的に聞いた話だとしながらも、「敵の攻撃があったら足手まといになると思ったのだろうか」と推測し、続けた。
「他島に移すと偽って、エンジンの無い大型運搬船に乗せ大発(動)艇が曳航えいこうし沖に出てから曳航を放し秘密に積んだ速射砲と機銃で撃ち沈めた」
◆ほとんど知られていない虐殺 関与の手記は貴重(略)
<p style=”color:gray;text-align:right;”>引用元: <a href=”https://ift.tt/SyIXN0e” target=”_blank”>・最後の指揮官命令は島民の虐殺だった…元日本兵が書き残した敗戦直後のオーシャン島で起きたこと [蚤の市★]</a></p>
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