〝最後の近鉄戦士〟ヤクルト・坂口智隆が引退 内川、嶋に続き…偉大な選手が大きな決断

〝最後の近鉄戦士〟ヤクルト・坂口智隆が引退 内川、嶋に続き…偉大な選手が大きな決断

〝最後の近鉄戦士〟ヤクルト・坂口智隆が引退 内川、嶋に続き…偉大な選手が大きな決断

1: 名無しさん@恐縮です 2022/09/29(木) 13:34:17.66 ID:CAP_USER9
サンスポ 9/29(木) 2:30

最後の猛牛戦士が、ユニホームを脱ぐ―。ヤクルト・坂口智隆外野手(38)が今季限りでの現役引退を決意したことが28日、分かった。2003年に神戸国際大付高からドラフト1位で近鉄に入団し、オリックス時代の11年には最多安打のタイトルを獲得。16年のヤクルト加入後もレギュラーとして活躍し、通算1525安打を積み上げた。NPB(日本プロ野球機構)の現役選手では最後の近鉄出身選手。ファンに愛された男が大きな決断を下した。

不撓(ふとう)不屈の魂で、ファンを魅了してきた男がバットを置く。坂口が今季限りでの現役引退を決断した。

「ここ数年は覚悟しながら、まだ復活できると思ってやってきた。2軍暮らしが長くて若い子たちと一緒にやる中で、見られていることで体が動いた。一日一日、野球をうまくなろうと思えた。このチームで終われることが、まだ動けているうちに後輩たちに送ってもらえることが、自分の野球人生の幸せなのかなと。それが一番大きな決め手だった」

泥臭く駆け抜けた20年間のプロ野球人生にピリオドを打つ。

2003年に神戸国際大付高からドラフト1位で近鉄に入団。球団再編問題を経て、05年からオリックスに移籍すると、11年にはシーズン175安打で最多安打のタイトルを獲得した。

15年オフにみずから自由契約を申し入れ、16年にヤクルト加入。「スワローズには拾ってもらって、7年間お世話になった。ずっと恩返しをしたいと思ってプレーしてきた」。新天地でもレギュラーを奪い、主に1番打者として活躍したが、若手の台頭もあって昨季は25試合、今季は23試合の出場にとどまっていた。

晩年は故障に泣かされたが、泣き言は言わなかった。19年は左手に死球を受けて骨折。拳を握るたび、グラブをはめるたびに激痛が走った。7月7日の誕生日で38歳となった。勤続疲労で全身が痛み、毎試合前と就寝前に痛み止めは欠かせない。「『治ってくれ』と思いながら飲んでいる。おまじないみたいなもの」。献身的に支えてくれるトレーナーや治療院の先生のおかげでグラウンドに立ち続けた。

ファンや、OBの思いも背負っていた。NPBの現役では最後の近鉄出身選手。「始まりを作ってくれた球団で感謝の思いもある。背負わないといけないし、責任もある。忘れた人なんていないと思う。みんなこれからも思い続けてほしい」と素直な願いが口をついた。

今後は未定だが、「いずれは指導者になって若い子の手助けになれば。ずっと野球には携わっていきたい」と語った。

181センチ、82キロのスリムな体で全力プレーを続ける姿が多くのファンを魅了した。3球団を渡り歩いた最後の猛牛戦士がユニホームを脱ぐ。

■坂口 智隆(さかぐち・ともたか)

1984(昭和59)年7月7日生まれ、38歳。兵庫県出身。神戸国際大付高では2年春にエースとして選抜大会に出場。2003年ドラフト1巡目で近鉄入団。05年にオリックスへ移籍し、11年に最多安打(175)を獲得。08年から4年連続でゴールデングラブ賞(外野手部門)を受賞。16年からヤクルトでプレー。181センチ、82キロ。右投げ左打ち。独身。年俸5000万円。背番号42。

■大阪近鉄バファローズ

近畿日本鉄道を親会社として1949年に近鉄パールスとして設立され、パ・リーグ創設に参加。59年から近鉄バファロー、62年から近鉄バファローズに改称し、79年に西本幸雄監督の下、球団創設30年目でリーグ初優勝を飾った。チャーリー・マニエル、梨田昌孝らを擁した強力打線は「いてまえ打線」と呼ばれた。

※続きはリンク先で
https://news.yahoo.co.jp/articles/80dde6efd22c367b2b1b88f3acebb695f1ecf400



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