『岡田・阪神』たのんまっせ!!

『岡田・阪神』たのんまっせ!!

『岡田・阪神』たのんまっせ!!

👉バックスクリーン3連発!
1985年4月17日の阪神対巨人の試合で、阪神タイガースのクリーンアップが放った3者連続ホームランのことです。
🤔さて、その時の巨人のピッチャーはダレ?

1985年の阪神タイガースはランディ・バース・掛布雅之・岡田彰布の3人を中心にした強力打線を武器に優勝を狙えるチームでした。

宿敵巨人を相手に生まれたバックスクリーン3連発は、阪神タイガースの戦いに勢いを与えて、初の日本一に輝く原動力になりました。

⚾⚾⚾⚾岡田彰布
現在はデイリースポーツの野球評論家、読売テレビ・朝日放送・東日本放送(本数契約として)の野球解説者を務めており、2023年シーズンより現阪神タイガース監督矢野燿大の後継監督を務める予定。

岡田彰布⚾⚾⚾⚾
👉幼少期からタイガースと共に
大阪市中央区玉造で「大阪紙工所」という町工場を経営していた父親は阪神の有力後援者で、村山実・藤本勝巳らと親交があったことから幼少時よりタイガースと縁深く育った。
東大阪市にある私立朝陽ヶ丘幼稚園に入園後には、当時のタイガースの正三塁手だった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。
岡田が後にタイガースへ入団し、背番号16を希望したのはかつて三宅が着用していた番号だったからである。
大阪市立愛日小学校5年生で南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」に入団、本格的に野球を始めた。
父親の町工場においても草野球チームを結成し、岡田自身も村山が着用している背番号11を付けてマウンドに上がった。
また、阪神甲子園球場へタイガースの試合を見に行くことがあったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく敵側ベンチのある三塁側で、その理由として読売ジャイアンツの長嶋茂雄を一番近くで見ることが出来る上、そこから野次を飛ばすためだったという。
1972年、明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。
1973年3月、村山実の引退試合が行われたが、最後のマウンドへ上がる村山のキャッチボールの相手を試合前に務めた。
同年4月、北陽高校に進学。2学年上には有田二三男(のち近鉄)と慶元秀章(のち近畿大学~クラウンライター/西武~近鉄)がいた。
同年夏の第55回全国高等学校野球選手権大会に7番、あるいは2番左翼手として出場。3回戦(対宮崎県立高鍋高等学校戦)では有田がノーヒットノーランを達成。
準々決勝で愛媛県立今治西高等学校と対し、2対6で敗れた。この大会で岡田は3試合で9打数3安打、打率.333を記録している。
3年生時の1975年にはエース兼4番打者として予選決勝まで進出するも、興國高等学校に2対0で敗れ、甲子園出場は果たせなかった。
この頃、読売ジャイアンツからドラフト指名の話を受けたことがあったという。
岡田はプロ入りせずに早稲田大学野球部のセレクションを受験、15打数14安打14本塁打(自著では10スイング中、7スイングがフェンス超えだったという)という驚異的な打撃力を見せて一発合格を果たす。
2学年上に難波秀哉と山倉和博とのバッテリーがいた。東京六大学野球リーグでは1976年秋季リーグから「7番・左翼手」でレギュラーとなり、江川卓(法政大学)から3安打を放って注目を集めた。
2年生からはかつて憧れていた三宅と同じ三塁手として5番を任され、1978年秋季リーグでは三冠王に輝き、4年ぶりのリーグ優勝を果たす。
1979年春季リーグでは主将としてリーグ連覇に貢献し、同年の全日本大学野球選手権でも決勝に進むが、香坂英典・高木豊を擁する中央大学に敗れ、準優勝に終わる。
第7回・第8回日米大学野球選手権大会にも出場し、全日本の4番打者として全試合に出場した。大学同期にはエースの向田佳元、捕手の有賀佳弘、外野手の島貫省一がいた。
岡田のリーグ通算成績は88試合で309打数117安打、20本塁打、81打点・打率.379で、打点と打率はリーグ記録として現在も破られていない。
また、1977年秋季から5季連続でベストナインに選出されたほか、1978年春季・対東京大学2回戦では史上2人目のサイクル安打を達成するなど、岡田は大学野球の花形選手となった。
なお、岡田は4年間で指定取得単位が不足していため、早稲田大学中退となる。
1989年、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁手にコンバートされた。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏二死満塁で、ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。
奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・藤田元司の目の前で、敗戦投手だった村山実の仇討ちを果たした。
イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。
この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメイトのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞した。
1990年から中村勝広監督が就任し、八木裕が遊撃手から三塁手にコンバートされ、岡田は二塁手に戻った。
1991年は規定打席到達では自己ワーストの打率、安打、打点に終わる。
1992年、日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り、一塁にコンバートされる。シーズンでは新庄剛志や亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減。
4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた。
1993年、再び外野手として起用されるようになるが出場機会は前年よりさらに少なく、「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約になる。
  ⚾阪神監督時代⚾
2003年オフ、星野仙一が健康問題のために監督を勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。
球団史上初の大阪府出身の監督となった。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。
監督初年度の2004年は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加え伊良部秀輝のセットポジションの欠点、ジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ、マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、さらにジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムスと安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。
2005年9月7日ナゴヤドーム、中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回表の微妙な本塁クロスプレーでアウトの判定が伏線になり(本塁憤死した走者は奇しくも中村豊)、その直後の9回裏本塁セーフの判定に激昂し、選手全員を一時引き揚げさせ抗議。
その後試合は再開するも、赤星憲広の落球で一打サヨナラ負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、クローザー・久保田智之にかけた言葉は❝もう打たれろ! 打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほったれ(投げたれ)!❞というものだった。
久保田は後続の渡邉博幸、タイロン・ウッズを連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制した。
この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満に「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。
しかし、日本シリーズは千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。
11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、サヨナラ2点本塁打を打ちMVPに輝いた。
2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。
そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。
この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。
2007年6月8日の対オリックス戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審の谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。
8月16日の対中日戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審の井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。
なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった。
なお余談ではあるがその2人の審判はのちに中日の落合博満監督を退場処分としている。
2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピックの野球日本代表に主力である新井貴浩・矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。
クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。

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