9月13日は「北斗の拳の日」。『週刊少年ジャンプ』での『北斗の拳』(原作:武論尊、漫画:原哲夫)連載開始が1983年9月13日だったことにちなみ、2018年に一般社団法人・日本記念日協会が認定・登録した記念日だ。北斗の拳が連載されていた時期といえば、ジャンプの黄金時代。誰もが『週刊少年ジャンプ』を愛読し、「ジャンプ読んだ?」で誰でも仲良くなれていた時代だ。読んでいるのが常識だった、あのころを今振り返りたい。(文:昼間たかし)
「漫画雑誌」を超えた存在に。
1968年7月創刊の『週刊少年ジャンプ』の発行部数は、右肩上がりを続けた。創刊時の部数は10万5000部。それが、わずか2年半後の1970年12月には115万8000部。1987年12月には485万部まで伸びた。単なる漫画雑誌としての枠を越えて社会現象として注目されるようになったのは、500万部突破が目前に近づいた1988年頃からだ。
人気の秘密を、当時の後藤広喜編集長は明快に語っている。
「ジャンプはまず漫画雑誌であり、面白い漫画を提供することを使命にしている。その基本に沿って、漫画制作の面では“友情、努力、勝利”という編集方針を守り、新人の発掘と育成に力を入れてきた結果でしょう」(『読売新聞』1988年3月24日付夕刊より)
この時期の人気連載は「友情・努力・勝利」を明快に追求していた。この時期の人気連載である『北斗の拳』『キン肉マン』『聖闘士星矢』『ドラゴンボール』はいずれも、それだ。
もともとは三要素のなかった作品ですらも、途中で路線変更させてしまう力技が、ジャンプ編集部にはあった。『キン肉マン』は当初は怪獣・宇宙人を相手にダメヒーローのキン肉マンが戦うギャグ漫画だったが、テリーマンとのタッグマッチを経て超人オリンピックへ。シリアスな対決が描かれるマンガに様変わりした。『ドラゴンボール』も、最初は西遊記風の道中物だったのが、天下一武道界を機に「バトル」主体のマンガになっていった。
ジャンプが独走した理由は、やはり連載コンテンツの魅力だろうが、決して「それだけ」ではなかった。ジャンプが10万5000部で創刊したとき、既にライバル誌の『少年サンデー』『少年マガジン』は100万部を突破していた。創刊当初の原価計算では、25万部を発行しても、実売率80%で収支がトントンになる計算。つまり赤字スタートだったのである。加えて、ライバルの二誌がいずれも定価70円なのに対して、創刊当時のジャンプは定価90円。後発の新雑誌なのにライバルよりも「高い」のだから、メチャクチャな強気である。
おまけに実績もない新雑誌だから、人気漫画家が原稿執筆依頼に応じてくれるとは限らない。そもそも、超人気漫画家には、編集者が会わせてももらえない。そこで苦肉の策として考えられたのが「新人の登用」である。このときジャンプに集った新人が本宮ひろ志・永井豪といったマンガ家たち。いまとなっては伝説級の大作家たちだが、ジャンプ編集部は彼らを見出し、そして彼らに牽引されて部数を伸ばしていったのだ。
ジャンプといえば、読者アンケートが有名だが、徹底的に「読者の声」を聞いていく姿勢は当初からだったようだ。編集部はリサーチをして、メインターゲットである小学校5・6年生の好きな言葉が「友情・努力・勝利」だということを突き止めた。定価が高い部分は、漫画の本数を他誌よりも多くしてカバー。毎週の読者アンケートで読者の反応を的確につかみ取って作品に反映させていく、新人は専属制で鍛え上げる、といった独特のスタイルを確立させていった。とりわけ専属制による新人へのシゴキは苛烈だった。初代編集長の長野規は、こんなことを話している。
「デビューする前には、何十本かの没があります。例えば『ドクター・スランプアラレちゃん』『ドラゴンボール』で知られた鳥山あきら(ママ)は、手塚治賞の佳作にもならぬ新人でした。それをうちの担当編集者が鍛えに鍛えて、年間50本も没にして、はじめて連載をはじめることにしたのですよ」(『創』1989年6月号)