大久保利通、琉球併合でしれっと仕掛けた驚きの罠 「琉球は日本に帰属する」と清に認めさせた経緯

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大久保利通、琉球併合でしれっと仕掛けた驚きの罠 「琉球は日本に帰属する」と清に認めさせた経緯

1: 昆虫図鑑 ★ 2022/09/11(日) 16:20:57.25 ID:CAP_USER

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。

(略)

その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷は下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。次に大久保が進めた「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得た。

■「琉球」の日本帰属を清に認めさせた

 明治7(1874)年11月26日、清から帰国した大久保は、横浜港に集まった群衆から大きな歓迎を受けた。だが、清との外交で日本が得たものは、賠償金だけではない。どれだけのことを大久保が成し遂げたのか。本当の意味で知る者はほとんどいなかった。

 清との外交による功績の1つが「琉球(沖縄)の日本帰属を事実上、認めさせたこと」である。いったい、どういうことか。

 そもそも、今回の台湾外征がなぜ行われたのか。那覇を出航した2隻の船が暴風によって台湾に漂流。66人のうち54人が現地の高砂族に殺害され、日本が抗議すべく台湾に出兵する。それに対して、台湾を事実上統治する清が日本に抗議してきたので、大久保が乗り出していった。

 清との話し合いで争点となったのは「台湾が清の帰属なのかどうか」。清に帰属するのならば現地人による殺害について清は日本に賠償金を支払う必要があるし、帰属していないのならば日本が台湾に出兵しても清に文句を言われる筋合いはない……ということになる。

 この論法で大久保は交渉を進めたが、実はもう1つの重要なテーマが、この議論には内包されていた。それは殺されたのが、那覇から帰路につく宮古島の島民だったという点だ。

 当時、現在の沖縄県にあたる琉球王国は、日本と清の両方が、その帰属を主張していた。日本側は江戸時代から薩摩藩が支配していたことを理由にして、一方の清側は明朝と琉球国が冊封・朝貢関係にあることを理由にして、それぞれが自国の統治下にあると譲らなかったのだ。

 その点を踏まえて、今回の台湾外征を観てみれば、どうだろうか。まさに琉球の一部である宮古島の人たちが台湾の現地人に殺害されたために、日本が声を上げたことになる。

 抗議したのは、日本が「宮古島の島民は自国民だ」とみなしていたからこそのこと。大久保は初めから「琉球は日本に帰属する」という前提で、清との交渉に挑んでいたのだ。

 清はその前提を自然に受け入れたうえで、大久保と交渉してしまい、しかも台湾出兵を「義兵」(正義のための行動)と認めたことになる。これは琉球に住む人々を日本人だと清が認めたことにほかならない……大久保の外交は、そんな布石をも打っていたのである。

■清への旧習をやめさせ、日本に併合

 このことを突破口に、大久保は清と琉球王国の関係を引き離していく。大久保外交が行われた翌年、明治8(1875)年に清で新しい皇帝が即位すると、琉球王国は使節を送ろうとしている。これまでどおりに慣習を守ろうとしたのだ。

 だが、それでは元の木阿弥になってしまう。大久保はこれを阻止するべく、太政大臣の三条実美に「琉球藩処分方ノ儀伺」を提出。配下の松田道之を那覇に送り、清への隔年朝貢や、新帝即位における派遣使節を取り止めさせるなどし、旧習を払拭させようとした。

 そうした積み重ねの結果、明治12(1879)年には琉球王国が廃され、沖縄県として日本国に併合される。併合の理論的な根拠に、大久保の外交の成果が大きな意味を持った。

ヤフーニュース(東洋経済)
https://news.yahoo.co.jp/articles/ef874c499f0b0d8818f53236f0b52d5193f7ba8f?page=1


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