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「東の澤井、西の福留」の澤井良輔さん 引退発表の中日・福留孝介に「本当にありがとう」
「東の澤井、西の福留」1995年の高校野球で注目された2人のスラッガー。8日、引退を表明した中日の福留孝介外野手に対して、当時のライバル、澤井良輔さん(44)が「同い年の希望の光でしたからね。お疲れさま、なんですけど、ちょっと寂しいです」ともらした。
銚子商からロッテに入団、05年に戦力外通告を受け、ユニホームを脱いだ。今は外資系保険会社で営業職に就いている。サラリーマンになって13年。この日、一本の電話にハッとした。「福留くん引退だってね、ってお客さんから連絡もらったんです。彼がいたからこそ、今の僕があるんだな、って改めて感じました。ありがたいです」。
2人の出会いは94年の第1回アジアAAA選手権。高校2年の冬、日本代表として共に戦った時に、澤井さんは衝撃を受けたという。「僕も含め、全国から集まったみんなそれぞれ、お山の大将だったわけですよ。でも、彼の打撃には度肝抜かれました」。ふと、打撃について質問をすれば、「そんな考えじゃ、ダメだろ」と事細かにバッティング理論を語られた。
「そんな打撃論なんて、それまで聞いたことなかったですからね。しかも同い年なのに、上から語られて…」と笑って振り返る。そして冒頭のように、ライバル関係とされるようになったセンバツ、夏の甲子園に続く。
だが、出会ったときから福留とのレベルの差を感じていた澤井さん。メディアに比較されるたびに「いい迷惑だった」という。忘れられないのは、福留も中日入りして迎えたある年のオープン戦の試合前。ナゴヤドーム(現バンテリンドーム)で再会を果たした時のことだ。
「むこうはバリバリの1軍選手。そして僕はオープン戦から成績残さないといけない控え選手。試合前に打ってたら、『必死こいて、ちゃんとやっとけよ』みたいなこと、言われたんですよね」。周りにはロッテの後輩たちも居た。「すごく恥ずかしかった」。3人1組で5分しか与えられない打撃練習をする立場で、さらに肩身の狭い思いをしたことを鮮明に覚えている。
志半ばでユニホームを脱いだ後、福留の活躍を応援することなどできなかった。「でもそれは、自分が野球に未練があったりしたからだと思うんです。今こうして働いて、自分の仕事にも誇りを持っている中で、変わっていく自分を感じています」。
ふと見た野球ニュースで福留の活躍を知れば「うれしい」と思い、代打で出場したシーンを見れば「頑張れ!打て!」と自然と応援した。「紆余曲折を経て、やっぱり孝介はすごい、って素直に思えるようになったんですよね。何々世代って言いますけど、確実に福留世代、ですからね」。世代で最後の最後までユニホームを着続けた男に「本当にありがとう」と伝えたいという。
「ホントは、ちょっとぐらい澤井世代って言われたかったんですけどね。でも、今から思い返しても、そんなチャンスちっともなかったですけど」澤井さんはそう言って、笑った。
報知新聞社
https://news.yahoo.co.jp/articles/ef1ab826908c4823c19d3c5a0f9d26c6932d85a8
元ロッテの澤井良輔さん、今は外資系保険会社で営業職を務めている
https://i.imgur.com/bxd5MNr.jpg