【韓国】 2000人を率いて抗日闘争「朝鮮ジャンヌ・ダルク」…死後73年目に有功者に

【韓国】 2000人を率いて抗日闘争「朝鮮ジャンヌ・ダルク」…死後73年目に有功者に

【韓国】 2000人を率いて抗日闘争「朝鮮ジャンヌ・ダルク」…死後73年目に有功者に

1: LingLing ★ 2022/08/15(月) 21:05:38.40 ID:CAP_USER
2000人を率いて抗日闘争「朝鮮ジャンヌ・ダルク」…死後73年目に有功者に(1)

1933年9月の朝鮮共産党再建事件で裁判を受けた当時、新聞に掲載された金命時(キム・ミョンシ)将軍の姿。 [写真=開かれた社会希望連帯]
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社会主義系列の独立活動家だった女性抗日独立活動家、金命時(キム・ミョンシ)将軍(1907-1949)が死後73年目に独立有功者と認められた。国家報勲処は12日、第77周年光復節を迎えて独立活動家303人を独立有功者として褒賞し、金命時将軍に「建国勲章愛国章」を追叙したと14日、明らかにした。

◆「朝鮮のジャンヌ・ダルク」 2000人率いて抗日武装闘争

「部下2000人を率いて抗日戦で活動し武勲を立てた沿岸独立同盟(朝鮮独立同盟)の女将軍・金命時、数日前に凱旋帰国」。

1946年12月23日付の東亜日報の1面に掲載された記事の見出しだ。この記事で金将軍は「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と表現された。解放後、他のメディアも「女将軍」として金将軍の抗日闘争を伝えた。

過去の慶尚南道馬山(マサン、現昌原)で生まれた将軍は18歳だった1925年に加入した高麗共産青年会で留学生に選抜され、ソ連モスクワ東方勤労者共産大学で勉強した。この大学はコミンテルン(共産党国際組織)傘下の共産主義革命家養成機関だった。

金将軍は留学から1年余り経過した1927年、中国上海に派遣され、中国共産党上海韓人支部で洪南杓(ホン・ナムピョ)、チョ奉岩(チョ・ボンアム)らと共に抗日運動をした。日帝の満州侵略が迫った1930年には武装隊と共にハルビン日本領事館を攻撃した。

その後、上海に戻って秘密機関紙「コミュニスト」の制作など朝鮮共産党再建運動を始めた。そして1932年に国内に潜入し、「コミュニスト」「太平洋労働組合」など秘密機関紙を印刷・配布し、日本の警察に逮捕された。チョ奉岩らと「朝鮮共産党再建事件」の主謀者とみなされ、懲役6年が言い渡された。予審期間1年を含めて新義州(シンウィジュ)刑務所で7年間にわたり収監された。

金将軍は1939年に満期出所した後、中国に渡って中国共産党八路軍に入隊して戦い、武亭将軍の連絡を受けて朝鮮義勇軍に合流した。ここで華北地帯女性部隊の指揮官を引き受け、戦闘と宣伝戦をし、解放前まで抗日武装闘争をした。この時「女将軍」称号を受けた。

金命時将軍は解放後、国内で信託統治反対活動をした。金将軍は国家保安法違反容疑で逮捕され、1949年10月に富平(プピョン)警察署留置場で生涯を終えた。当時、政府は金将軍が極端な選択をしたと明らかにした。

◆独立有功者叙勲の障害 「北朝鮮労働党政治委員」の記録

昌原(チャンウォン)地域市民団体「開かれた社会希望連帯(希望連帯)」は2019年1月、将軍に対する独立有功者褒賞を申請したが、政府は受け入れなかった。国家報勲処は同年11月、「死亡の経緯など光復後の行跡不明」とした。

希望連帯は死去当時に内務部が将軍の履歴を「北労働政治委員」と発表したのが障害として作用したと判断した。実際、報勲処は希望連帯が2021年に再審の要請をしたことに関連し、「1949年に金命時先生がある種の容疑で富平警察に留置され、北労働政治委員と紹介された点について、先生の最後の活動が確認される1947年11月から死亡時までの行跡に関する綿密な検討が必要だと判断した」と回答した。

◆市民団体「金命時、北朝鮮労働党の政治委員でない」

希望連帯は北朝鮮労働党政治委員の履歴が事実かどうかを確認する作業に入った。この過程で国土統一院(現統一部)が保有する北朝鮮労働党創立大会(1946年8月)、第2次大会(1948年3月)会議録を確保し、北朝鮮労働党には「政治委員」という職責がないことを確認した。該当資料には中央委員、検閲委員などの職責と中央委員会、検査委員会組織はあるが、政治委員や政治委員会は記録されていなかった。さらに該当資料の名簿に金ドゥ奉(キム・ドゥボン)、金日成(キム・イルソン)などの名前はあるが、金命時はないという事実も確認した。

中央日報
https://japanese.joins.com/JArticle//294353


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