あわせて読みたい
島谷ひとみ「このままじゃ帰れない!」国仲涼子と励ましあった“どん底”デビュー前
1: 湛然 ★ 2022/07/24(日) 06:40:49.09 ID:CAP_USER9島谷ひとみ「このままじゃ帰れない!」国仲涼子と励ましあった“どん底”デビュー前
7/24(日) 6:01 女性自身
https://news.yahoo.co.jp/articles/6030f2b0f367cf4cc78a855ef7f276511a59d231
小さい頃は家の前の海に向かって歌っていた島谷さん
恥ずかしくて「歌手なりたい」と言えなかった学生のころの島谷さん
https://img.jisin.jp/uploads/2022/07/watashitachi_no_80nendai1_2.jpg住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、カラオケで熱唱した歌の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。
「広瀬香美さんのボーカルレッスンスクールに通っていたこともあるんです。私にとっては、憧れの歌手で大先生。レコード会社のスタッフの方に『すごく影響を受けた』と言い続けていたから『じゃあ、楽曲提供を受けられるか頼んでみよう』という話になったんですね」
広瀬香美から楽曲提供を受けた経緯を語るのは、島谷ひとみさん(41)。幼いころから歌手になることを夢見ていたと振り返る。
「実家は瀬戸内海に浮かぶ小さな島。家の目の前の浜に立って、海に向かってどこまでも大きな声で歌っていました。父から『向こうの島に届くくらい大きく』って言われて」
母の実家が営んでいたカキの養殖所の社員旅行には、従業員の家族や親戚まで集まり、夜は宴会で盛り上がった。
「私のショータイムもあって、大川栄策さんの『さざんかの宿』(’82年)や、吉幾三さんの『雪國』(’86年)を歌うと、おじいちゃん、おばあちゃんが大喜び、おひねりをくれながら『大きくなったら、歌手になるんだよ』なんておだてるんです。まだ幼いから、その気になっちゃいますよね」
歌を聴くのも大好きで『歌のトップテン』(’86~’90年・日本テレビ系)は欠かさず見ていた。
「小学生時代は、フリフリの衣装がかわいかったWinkの『淋しい熱帯魚』(’89年)や、光GENJIの『パラダイス銀河』(’88年)といったアイドルソングが大好きで、家族で出かけるときは、姉が録音してくれた歌番組のカセットテープを車の中でずっと流していました」
小学校高学年になると音楽の趣味が広がっていった。
「いとこのお兄ちゃんの家に遊びに行ったとき『どれでも好きなCDを持っていっていいよ』と言われて手に取ったのが、ドリームズ・カム・トゥルーの『The Swinging Star』(’92年)。メロディはもちろんのこと、ソウルフルな吉田美和さんの歌声に衝撃を受けました」
広瀬香美の『ロマンスの神様』(’93年)、『ゲレンデがとけるほど恋したい』(’95年)を知ったのも、ちょうどこの時期。
「きっかけは、アルペンのCMだったと思います。“調律されたピアノを弾いているように、正確に歌う人だな”というのが、最初の印象」
ずっと“歌手になりたい”と思っていたが、高校生にもなると、“現実的に無理だ”という思いもーー。
「ところが’97年、高校1年生のときに、ワイドショー『ルックルックこんにちは』(’79年~’01年・日本テレビ系)の『女ののど自慢』女子高生大会に、近所のおばちゃんが申し込んでくれたんです。番組に出て歌うだけで、A~C賞の中から好きなものをもらえて、私はA賞の桐タンスと真珠のネックレス、スーツケースをいただきました」
このテレビ出演をきっかけに、いくつかの音楽関係者からコンタクトがあった。これらの誘いは断ったが、高校卒業後の進路を改めて考えたとき、封印していた“歌手になりたい”という気持ちが湧き上がってきた。
「そんなとき、たまたまスポーツ新聞で『第1回 THE JAPAN AUDITION』の広告を見つけたんです。安室奈美恵さんやDA PUMP、PUFFYなどそうそうたる顔ぶれが出演するオーディション番組で、“これに受かって、私は歌手になる”と決意しました」
「女ののど自慢」の賞品としてもらったスーツケースを転がして、再び上京。ドリカムの『未来予想図II』(’89年)を熱唱した。
「オーディションは『スター誕生!』形式。8社のレコード会社や芸能プロが札を上げてくれて、高校卒業とともに上京しました。芸能界を目指してトレーニングする女のコのための寮に入って、『わからないことがあったらなんでもこのコに聞きなさい』と紹介されたのが、少し先輩の国仲涼子ちゃんだったんです」
2: 名無しさん@恐縮です 2022/07/24(日) 06:41:01.76 ID:t59hLNfW0プロになるためのレッスンは厳しく、ダンスレッスンではリズムの取り方がわからなくて、一歩も足を踏み出せなかった。「得意だったはずの歌も、パワーがまったく足りず、声が裏返ったりかれたりして、一曲もまともに歌えませんでした」
■広瀬香美からのデモテープを聴いて自信喪失気味に
そんなある日、『THE夜もヒッパレ』(’95年~’02年・日本テレビ系)に、上京当時は寮仲間だったFolderが出演しているのをテレビで見る。寮生たちは、次々にデビューして一人暮らしを始めていった。
「最後まで寮に残っていた私と涼子ちゃんは『いつまで頑張ればいいんだろう』と落ち込んで泣いたり、お互い島育ちの田舎者なので『このままじゃ帰れない』と励まし合ったりしていました」
ようやくデビューを飾れたのは上京してから2年後。曲はテレビ番組の企画で島田紳助氏がプロデュースした演歌『大阪の女』(’99年)だった。
「演歌なので“なんのためのダンスレッスンだったのか”とも思いましたが、どんなジャンルでもデビューできるのはうれしくて。涼子ちゃんもすごく喜んでくれました」
翌年にはポップスへ転向。ジャネット・ジャクソンの曲をカバーした3枚目のシングル『パピヨン』(’01年)が話題となった。
そしてシャンプーのCMに出演する際、監督から「ちょっとこれを鼻歌で歌ってみて」と言われた曲が、のちにシングルリリースされて最大のヒット曲となる『亜麻色の髪の乙女』(’02年)だ。
“歌手としてやっていける”と自信を得たころ、広瀬香美から『Remember of you』(’02年)や『赤い砂漠の伝説』(’03年)など、計3曲もの楽曲が提供された。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
ネットの反応
答えが分からなくて苦し紛れに
私を潰そうとしているとか貶めようとしていると
不穏なコメントを連発してて草
脳ベルSHOWが似合うな
居場所としては一番しっくりくる
可愛くて好きだった
なのに口パク集団ダンス部が幅を利かせてる理不尽さ
シングルは出だし以外はダンスビートの糞アレンジだったけど
深紅
ちゅらさんで速攻売れたんじゃないの?
倉橋島ってとこらしいwikiだと
沖縄勢と仲良かったからそう思ってたんかの
いや俺も沖縄出身かと思っていた
仕事で一度行ったけどめちゃいい所だった
3曲目あたりの織田哲郎の曲で当たり引けて良かったなあと思った記憶
面白かったわ
>父から『向こうの島に届くくらい大きく』って言われて
そういう経歴が感じられん歌唱方法だな
難しいのによくマスターしたなと思ったが
引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1658612449/