撃たれて死んだことは理由にならない…「安倍元首相の国葬」に国葬の専門家が「やるべきではない」というワケ

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撃たれて死んだことは理由にならない…「安倍元首相の国葬」に国葬の専門家が「やるべきではない」というワケ

岸田文雄首相は7月14日、演説中に銃で撃たれて亡くなった安倍晋三元首相について、今年の秋に国葬を行うと発表した。『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』(勉誠出版)の著者で、中央大学文学部の宮間純一教授は「岸田首相は『暴力に屈せず民主主義を断固として守り抜くという決意を示していく』と述べたが、国葬という制度が本来的にもっている性質を理解しているとは思えない」という――。

■「民主主義を断固として守り抜く」への違和感

岸田文雄首相は、2022年7月14日に開かれた記者会見にて、凶弾に倒れた安倍晋三元首相の葬儀を今秋に「国葬儀」の形式で行うと発表した。

その理由として挙げられたのは、①憲政史上で最長期間首相を務めたこと、②さまざまな分野で重要な実績をあげたこと、③国内外から哀悼の意が寄せられていること、の3つである。そして、「安倍元首相を追悼するとともに、わが国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く」と国葬の意義を語った。

私は、この会見の内容を目にして恐ろしさを覚えた。

3つの理由は、どれも納得できるものではないが、事前の報道で話題になっていたこともあって驚きはしなかった。ただ、岸田首相の言葉にある「民主主義を断固として守り抜く」は意味がわからなかった。不当な暴力で亡くなったからといって、安倍元首相を国葬にすることがどうして民主主義を守ることになるのか。私の理解では、国葬はむしろ民主主義とは相いれない制度である。

歴史家の立場から、過去にさかのぼってこの時感じた恐ろしさを説明してみたい。

■暗殺された大久保利通が「国葬」となった理由

国葬とは、国家が主催し、国費をもって実施する葬儀のことをいう。

日本では、天皇・皇太后などのほか、明治以降1945年までの間、天皇の「特旨(とくし)」(特別な思し召し。)によって「国家ニ偉功アル者」の国葬が行われていた。国葬の初例は、1883年に行われた岩倉具視の葬儀だが、制度こそなかったものの1878年の大久保利通の葬儀は国葬に準ずる規模で催された。

大久保は、5月14日石川県士族島田一郎らに暗殺され、そのわずか3日後には葬儀が盛大に行われた。かつてないほどの大がかりな葬儀を、なぜこれほどまでに急いで実施しなければならなかったのか。暗殺されたのだから事前の準備はない。

葬儀を主導したのは、大久保の後継者として内務卿に就いた伊藤博文と、大久保と同じ薩摩藩出身の西郷従道・大山巌らである。彼らが心配したのは、政府の最高実力者であった大久保が不平士族の手にかかって落命したことで、反政府活動が活発化することであった。前年には、西南戦争があったばかりで、不平士族はもちろん、自由民権派の活動などへも政府は警戒を強めていた。明治政府は、この段階ではまだまだ盤石ではなかった。

■安倍政権の評価を固めるためではないのか

そこで、伊藤たちは、天皇が「功臣」の死を哀しんでいる様子を、大規模な葬儀という形で国内外に見せつけようとした。葬儀を通じて、天皇の名の下に島田らの「正義」を完全否定し、政府に逆らう者は天皇の意思に逆らう者であることを明確にした。大久保の「功績」を、天皇の「特旨」をもって行われる国家儀礼で揺るぎないものとし、それによって政権を強化しようと葬儀を政治利用したのである。

そしてこの葬儀は、一般の人びとを巻き込んで執行された。かつてない規模のセレモニーを一目見ようと人びとが集まり、葬列はさながらパレードのような状態となった。

私には、伊藤たちの思惑が岸田首相の発言と重なった。表面上は、民主主義を守ると言っているが、多数残されている安倍元首相の疑惑を覆い隠し、安倍政権の評価を固めて自民党政権を守ろうとしているのではないか、と。

■死を悼むため国民の歌舞音曲は停止する

岩倉具視以降、1945年に実施された載仁親王(閑院宮)まで21名の国葬が、天皇の「特旨」によって執り行われた。

厳格な基準があったわけではないが、太政官制で太政大臣・左右大臣を務めた人物、旧薩摩・長州藩主、元老などが選ばれている。1885年に内閣制度が導入されてからは、閣議決定の後、首相から天皇に上奏し、裁可(天皇による決裁)を経て執行する手続きが取られた。内閣によって葬儀掛が組織され、計画・実施の中心的役割を果たした。

国葬は、回数を重ねる中で形式を整えてゆく。「功臣」の死を悼むために天皇は政務に就かない(廃朝)、国民は歌舞音曲を停止して静粛にする、死刑執行は停止するといったことも定型化する。私は、このような国葬の形式がおおよそ整ったのは、1891年の三条実美の国葬だと考えている。

■国葬とは天皇から「功臣」に賜るもの

三条の場合には、葬儀の現場東京から離れた町村・神社・学校などでも追悼のための儀式が実施された。また、メディアが発達したことを背景に、新聞などを通じて三条の死が「功臣」たるにふさわしい業績・美談とともに広められてゆく。全国各地の人びとは、三条の追悼行事に参加することで、「功臣」が支えたとされる天皇や国家を鮮明に意識することになる。

近世までの民衆は、自分が日本人であるという自己認識はもっていなかった。そもそも近世に、日本という国家は存在しない。大多数の人びとは、将軍や大名に対する従属意識はあっても、天皇が何者なのかはよく知らない。

明治政府は、そうした人びとを「国民」に変え、国家の構成員としなくてはならなかった。その政策の柱の一つとして、天皇は国家統合の象徴として演出され、万世一系の元首として振る舞った。天皇から「功臣」に賜る国葬は、そうした国民国家の建設のさなかに、国家統合のための文化装置として機能することが期待されて成立した。

■なぜ戦死した山本五十六は「国葬」とされたのか

天皇から国葬を賜った「功臣」に対する評価は絶対的なものとなる。個人の意志にかかわらず、国葬を通じて「功臣」を追悼することが強制され、国民は一つの方向を向いて「功臣」に敬礼しなければならない。

もっともわかりやすい例は、山本五十六の国葬であろう。山本は、第2次大戦中の1943年に、戦局が悪化する中、ブーゲンビル上空で米軍機に撃たれて戦死した。山本は、先例に従えば本来対象とならないが、天皇の「特旨」によって国葬を賜ることになった。

国葬に際して、東条英機首相は、「一億国民の進むべき道はただ一つであり」、山本の精神を継承して「米英撃滅」に邁進し、「宸襟(しんきん)」(天皇の心。)を安んじなければならない、と国民にうったえた。国民的人気が高かった山本の戦死を利用して、戦時体制を強化しようという意図があからさまである。

銃後の母親たちには、国葬当日「弔旗を掲げるにしても、神棚へお燈明を上げて礼拝するにしても、お母さんたちは故元帥の遺志は自分たちがお継ぎするという気持を持ち、元帥こそは吾国民の鑑であることをよくお子さんたち達に説明してからにしていただきたい」などと指示が出された(『朝日新聞1943年6月5日朝刊)。

国葬を通じて、国民はみな山本の遺志なるものを継いで、戦争に協力することを強要されたのである。

極端な例を挙げていると思われるかもしれないが、本質的に国葬は、国民を一つにまとめようとして実施されるものである。国家の危機に際して、山本の国葬ではその性格がむきだしになって表れたのである。

■戦後唯一の例外「吉田茂元首相の国葬」

敗戦後、国葬令は1947年12月31日をもって失効した。

1946年には、地方官庁および地方公共団体に対して「公葬その他の宗教的儀式及び行事(慰霊祭、追弔会等)は、その対象の如何を問わず、今後挙行しないこと」と、国から通達が出されている。国葬をはじめとする公葬は、神式で行われてきた。連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP)が、神社・神道を政治から切り離して「国家神道」を解体しようとする中で、公葬も必然的に禁止されることになる。以後、現在に至るまで国葬を行うための直接の根拠となる法令は作られていない。

戦後唯一の例外として吉田茂の国葬が知られている。

1967年、吉田が急死すると外遊中だった佐藤栄作首相は急遽帰国し、国葬実施のための調整を進めた。まもなく閣議で国葬が正式決定し、佐藤は「もっとも苦難にみちた時代にあって、七年有余の長きにわたり国政を担当され、強い祖国愛に根ざす民族への献身とすぐれた識見をもって廃墟と飢餓の中にあったわが国を奇跡の復興へと導かれた」との談話を発表した(『朝日新聞1967年10月23日夕刊)。

日本武道館で行われた葬儀は、国内外から約5000人の参列者を得て、宗教色を排除して実施された。皇太子夫妻(現・上皇、上皇后)も出席している。九段下には約8500人の群衆が詰めかけ、大磯の邸宅から武道館までの道のりには約7万人の人だかりができたという。

だが、吉田の国葬にはだれもがもろ手を挙げて賛成したわけではなかった。

■国葬はむしろ「民主主義の精神」と相反する制度

国葬当日の渋谷駅前のハチ公前広場では、共産党や民主団体の宣伝カーが反対演説をしてビラをまいていた。革新系首長の自治体では、平常どおり業務が行われていた。東大駒場キャンパスには、「するな黙祷、許すな国葬」と書かれた立て看板があった。国葬に関心を示さない人も多かった。浅草六区では黙祷の合図のサイレンがなっても誰も足を止めない。東京駅でも、スピーカーで黙祷の合図が知らされたが、足を止めて目を閉じたのはごくわずかであった。銀座の女子高校生は黙祷している人をみて「あれ、なにやってるの」と言う始末だったという(『朝日新聞1967年10月31日夕刊)。

吉田の国葬では、もはや戦前の国葬のような風景は見られない。

安倍元首相の国葬をめぐっては、安倍政権への疑惑や国費の使用、政教分離、決定までの手続きなどが主な論点となっている。それらも、もちろん重要な問題だと思う。だが、岸田首相の発言にふれて、国葬についていくらかの知識と関心を持ち合わせていた私の頭をよぎったのは、時代を逆行しているかのような恐ろしさであった。

国葬という制度が本来的にもっている性質を理解していれば、国葬を実施することにより、「民主主義を断固として守り抜く」という発想が出てくるはずがない。国葬は、むしろ民主主義の精神と相反する制度である。国家が特定の人間の人生を特別視し、批判意見を抑圧しうる制度など、民主主義のもとで成立しようはずがない。

■なぜ歴代首相の葬儀は、国民葬や合同葬だったのか

「功臣」の国葬は日本史上ですでにその役目を終えている。戦後実施された吉田茂の国葬は、政府が期待したほどには盛り上がらなかった。その後、佐藤栄作をはじめ歴代首相の葬儀は、反対意見を無視できずに国民葬や合同葬にスケールダウンせざるを得なかった。まさか復活するとは夢にも思わなかった。

今年の秋に、山本五十六の国葬のような状況が再現されるとはさすがに私も考えていない。吉田の国葬の時のように、無関心な層が多いかもしれない。だが、国葬とすることで国家が安倍元首相の業績を特別視し、批判意見を抑圧してしまう恐れがある。安倍元首相の追悼記事の多くは、「批判に対して寛容な人柄だった」と伝えている。そうだとすれば、国葬は安倍元首相の遺志にも反するのではないだろうか。

何も考えないで沈黙していれば、日本国民がみな彼を称え、自民党政権の業績を認めているという既成事実が創られてしまう。意見はいろいろあって良い。私の発言は、たたき台でよいから、一人でも多くの人にこの問題について考えてほしい。

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宮間 純一(みやま・じゅんいち)
中央大学文学部教授
1982年生まれ。博士(史学)。2012年中央大学大学院文学研究科博士後期課程修了。宮内庁宮内公文書館研究職、国文学研究資料館准教授、中央大学文学部准教授を経て2022年より現職。主な研究テーマは、日本近代史、公文書管理。著書に、『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』(勉誠出版、2015年)、『戊辰内乱期の社会 佐幕と勤王のあいだ』(思文閣出版、2015年)、『天皇陵と近代 地域の中の大友皇子伝説』(平凡社、2018年)など。

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東京・増上寺で故安倍晋三元首相に献花する人たち=2022年7月12日、東京都千代田区。 – 写真=AFP/時事通信フォト

(出典 news.nicovideo.jp)

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