【芸能】安室奈美恵、SPEED、三浦大知…伝説のタレント学校「沖縄アクターズスクール」が表舞台から消えたワケ

【芸能】安室奈美恵、SPEED、三浦大知…伝説のタレント学校「沖縄アクターズスクール」が表舞台から消えたワケ

【芸能】安室奈美恵、SPEED、三浦大知…伝説のタレント学校「沖縄アクターズスクール」が表舞台から消えたワケ

再び復活すると思います。

■数々のスターを生んだ“小さな島の大きな養成所”

わたしたちの原点はここにある――。

1990年代安室奈美恵さんやSPEEDDA PUMPMAX三浦大知さんら多くの人気アーティストを輩出し、日本エンターテインメント界の“才能の宝庫”として注目された「沖縄アクターズスクール」(公式インスタグラム)。その小さな島の偉大なる看板の下に、出身アーティスト総勢60人超が集結する一夜限りのイベント10月2日沖縄県宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開催される。

なぜ沖縄という小さな島から、世界で活躍する逸材がこれほど出てくるのか。その裏には、沖縄の子の多彩な可能性に寄り添い、異色の指導法で彼らを育てあげた、ある人物の存在があった。90年代後半までの全盛期を境に、事業拡大への意欲が裏目に出た沖縄アクターズスクールは長く「出身スター不在」の低迷期が続いてきたが、そのもう一つの決定的な要因になったのが、この人物の“不在”にあった。

■「夢を諦めさせてくれたのは奈美恵だった」

沖縄アクターズスクール創設者・マキノ正幸氏の長女で同校元チーフインストクター牧野アンナ氏(50)。安室奈美恵さんやMAXの指導にあたり、自身も92年、スーパーモンキーズの一員としてデビューグループ脱退後は、SPEEDDA PUMP知念里奈さん、山田優さん、黒木メイサさんら、のちにスターとして花開く若き才能たちの育成にも携わった。

経営者であるマキノ氏のもと、実質的に指導を担ったのはアンナ氏だった。現在、東京を拠点にダウン症のある人々のためのダンススクール「ラブジャンクス」を運営し、AKB48SKE48の振り付けなども手がけている。

子どもの頃から父・マキノ氏に、「自分の才能は何かをちゃんと知りなさい」と繰り返し言われ、叩き込まれるように指導者としての“資質”を植え付けられたというアンナ氏。14歳からマキノ氏による指導と独学でインストクターを務めながらも、スターへの憧れを抱き続けた。

「お前にあるのは、歌とダンスで人を魅了できる才能ではないと言われて。私にとっては死刑宣告そのものでした」と振り返る。だが、「その夢を諦めさせてくれたのは、奈美恵だった」という。マキノ氏が発掘し、特待生として受け入れた安室奈美恵さんの資質に、説明など必要なかった。

■帰沖と大復活祭、そして本土復帰50周年

「父がいう“才能”とはこういうことなんだと。それを目で見て理解できた時に初めて納得できたんです。自分に指導者の才能があるのか分からないけど、父がそういうなら、向き合ってみようって。そう思ってからは、父に言われたことはなんでもやってきました。父は認めないかもしれないけど、私は父の一番弟子だと思っています」

後述するが、アンナ氏はマキノ氏との不和からアクタースクールとの関わりを一度断ち切っている。しかし、コロナ禍2021年、再び沖縄に引き戻された。5月22日に放送された本土復帰50周年特番「NHKスペシャル『OKINAWA ジャーニー・オブ・ソウル』」では、マキノ氏の傍(かたわ)らで、共にレッスン指導に当たるアンナ氏の姿があった。

はからずも、アンナ氏の“帰沖”と「大復活祭」のイベント企画が、復帰50周年の沖縄の節目に重なった。沖縄アクターズスクールを一時代の栄光では終わらせない、復活劇の幕開けをも予感させる。アンナ氏の歩んだこれまでの舞台裏を、インタビューした。

■逃げるように去った沖縄になぜ戻ってきたのか

アンナ氏は2002年にアクタースクールを辞めてから20年近く、沖縄から遠ざかっていた。当時31歳。父・マキノ氏が、それまでのタレント養成に加え、公教育のあり方を問うフリースクールの先駆けともいえる教育事業にビジネスを拡大。似て非なる分野にもかかわらず、経営トップとしてこれら2つを一体的に運営しようと突き進み、生徒や父母、スタッフたちの間に戸惑いが生じていた。現場を預かるアンナ氏の考えは一向に聞き入れられず、修復しがたいほどの亀裂となった。

もうここにはいられない――。アンナ氏は、生活の中心を占めていた大切なスクール生たちを置いて、逃げるように沖縄を離れた。自分の可能性を信じ、人生のすべてを懸ける思いでレッスンに打ち込んでいた生徒たちだ。どれだけ時間と労力を費やしても、目標に到達できる人はほんの一握り。万に一つの確率でデビューにこぎつけたその先にも、安堵(あんど)や平穏などない試練の日々がひたすら続く。

■「ケジメをつけないまま辞めたことがずっと残っていて」

鍛えるべきは技術なのか、感性なのか、だれも正解を知らない。それでも諦めたくないという熱量を分かち合い、生徒たちの一心不乱の鍛錬にだれよりも寄り添っていたのは、アンナ氏自身だった。その後、指導者の要を失った沖縄アクターズスクールは、陽が沈むように表舞台から消えていくことになる。

あれから20年。沖縄を思うたびに、心を締めつけられた。

「自分の中でケジメをつけられないまま辞めてしまったことが、ずっとどこかに残っていて。生きている間に納得がいくまで、生徒たちのためにやりきりたい。そんな思いがありました」

そんな中、2020年の暮れ、沖縄に住む妹から連絡が入る。「体調のすぐれない父親が病院に行こうとしない、一緒に説得してほしい」という頼みだった。十数年ぶりの父との再会は、まるでへその緒がつながるかのように、アンナ氏と「沖縄アクターズスクール」の縁を結び直す転機をもたらした。

■映画監督、宝塚、俳優に囲まれた芸能一家

1971年に東京で生まれたアンナ氏は、米軍統治下にあった沖縄が本土に復帰した年の72年、1歳で両親と共に沖縄に移り住み、県内のインターナショナルスクールに通った。

父親のマキノ氏は、1950年代に日本映画の礎を築いた牧野省三氏を祖父に持ち、父親は数々の映画製作を手がけ、「マキノ映画」として一ジャンルを築いた映画監督・マキノ雅弘氏、母親は宝塚歌劇団出身女優の轟夕起子氏。さらに、俳優の長門裕之氏・津川雅彦氏は従兄弟にあたるという芸能一家の血筋を受け継ぐ。人材の発掘と育成能力でずば抜けた手腕を発揮した点は、多数の映画スターを育てた祖父・省三氏の功績とも重なる。

1983年、マキノ氏がタレント養成所として沖縄アクターズスクールを創設したとき、アンナ氏は11歳。それ以来、最初は生徒として、のちに指導者として、事業の舵取りを担うマキノ氏の右腕となってスクール運営をサポートし続けることになる。

「父はある種の天才なので、その分偏っているんです。自己中心的で周りは振り回されてばかり。でも、だからこそ、あれだけのことができたのだと思うんです」

■その強烈な存在感についていけない人間も

卓越した指導力以上に、スクールにおけるマキノ氏の絶対的な存在感と態度は、時に周囲に戸惑いを与えた。過去、一緒にいることが限界に達し、断絶状態となってしまった人はアンナ氏1人ではない。家族や周囲の人と、素朴な愛情や友情、信頼関係を育むことは容易ではなかったという。そんな親であり、指導者を持つ独特な環境に育ったことが、スクールにおけるアンナ氏の、特別な立ち位置を形づくっていくことになる。

「沖縄は私のふるさとであり、原点」とアンナ氏は語る。父親は京都、母親は東京の出身で、家では料理も言葉も「完全に本土スタイルだった」という。

「でも、私は沖縄で育っているからなまりがしゃべれる。沖縄では本土の人を『ナイチャー』と区別するし、父はウチナーンチュ(沖縄人)に対してすごく強い言葉を投げつけ、反感を買うことも少なくなかった。だからというわけではないけれど、子ども心に、沖縄の人たちの中にいる時はあえて“沖縄”を出すようにしていました。東京から来た人って思われないように。その感覚は無意識に今もあります。こっち(沖縄)の人に思われたいって」

■14歳の娘にレッスンを丸投げ

沖縄の血を持たずとも、「沖縄の人」の気持ちや感覚がわかるアンナ氏だからこそ、多様なルーツが混ざり合う沖縄の子たちの感性に、溶け込むように寄り添うことができた。トップダウンの経営者と、生徒や保護者たちの間に入るアンナ氏は、スクールにとって絶対に欠かせない存在だった。

現場を任せられるインストクターへと、アンナ氏を導き育てるマキノ氏の育成方法に、“常識”など存在しなかった。

14歳からレッスンさせられていましたが、なんの知識もない私に父は全部丸投げなんです。レッスンの仕方が分からないと言っても、『何でもいいから考えろ、やっていないのになんで分かるんだ』という。どうやってやるかを死に物狂いで考えてやれ。失敗したら任せた俺の責任なんだから、お前はもがいて苦しんでやれ。全部そんな感じでした」

■ミュージカルをつくれ、脚本をかけ、公演会を企画しろ…

「元々、音痴でリズム感もなく、歌もダンスも覚えるのに苦労していた」というアンナ氏に、マキノ氏は半ば突き放すように、こういった。

「何もできないからこそ、お前ができるようになれば、そのプロセスを教えられるようになる。できない人の気持ちが分かるようになる」

ミュージカルをつくれ、脚本をかけ、公演会を企画しろ――。校長から次々と降ってくる要求は、16、17歳の身には到底無茶に思えた。「でも、そのプロセスを全部経験していくと、大概のことはやれるんですよね」と笑う。会場の借り方から照明、音響など、電話帳片手に調べ尽くし、大人に助けを求め、「できる方法」を考えた。結果的に、経験したことの一つ一つが、「指導者」としての基礎を創り上げているという実感をつかむのに、それほど時間はかからなかったという。

■ソロではなく、グループとしてデビューさせる

マキノ氏が手がけた全盛期沖縄アクターズスクールには、どんなエネルギーがあったのだろうか。

「沖縄の子ってダメなんだよな、みんなメンタル弱いしすぐ沖縄に帰りたがるんだよ、沖縄の子は使いものにならない、そんなイメージが持たれていました」

80年代スクールからデビューをかなえる生徒が出始めた当初、芸能界にはこんな「沖縄の子」の評判があった。それに対してマキノ氏が「そんなことは絶対に言わせない」と宣言。育成方法を徹底的に見直し、鍛え上げたのが、安室奈美恵さん擁するスーパーモンキーズ以降の沖縄アクターズスクールだったという。

「それまでは才能のある子を事務所が一本釣りしていくパターンでしたが、スーパーモンキーズ以降はソロでは出さず、グループとしてチームとして精神面を鍛えていくことにしたんです。デビューを目的にさせるのではなく、その先を見させるという、メンタルトレーニングを始めました」

それぞれに、自分の夢を追う挑戦だったが、背負うものの大きさは、1人で抱えられる範囲をはるかに超えていた。

■5万5000人を見ても「沖縄の子は全然違う」

「内地(本土)に行ってどんなに叩かれても絶対に挫(くじ)けない心を身につけさせる、そんな考えでした。だからスーパーモンキーズメンバーは死ぬほど厳しく鍛えられています。でも、それがあの子たちを苦しめた部分もありました。校長からは『売れなかったら、もうこれ以上の子は出せない。お前たちの頑張りで、沖縄の子たちのエンターテインメント界での今後が決まるんだ』、そう言われ、勝手に沖縄の未来を背負わされて闘っていました」

華やかなステージの裏に、数えきれないほどの若者の忍耐と心の傷があった。それでも、時代が人を評価する。マキノ氏は、「沖縄の子」が体内に宿す独特なリズム感、表現力、身体力の高さを見抜いた。どんな環境を与えればその子らの潜在力を引き出せるのか、本人にいかに才能への自覚と自信を持たせ、トップの世界を見せてあげられるか。執念にも似た鋭い感覚で、“原石”に向き合っていた。

アンナ氏自身も、「沖縄の子」の資質の高さを感じるという。「沖縄の子って全然違います。全国で5万5000人に直接会ってオーディションをして痛感しました。この島国にいる才能の数を考えたら、全国対沖縄でも沖縄のほうが多いんじゃないかと思うくらいです」と話す。

■校長が安室奈美恵にかけた重い言葉

そんな「沖縄の子」に対する絶対的な“価値づけ”へのモチベーションこそが、マキノ氏が全身で醸(かも)し出す、威厳そのものだった。厳しい態度や言葉遣いにのせて、大事なことを伝えていた。アンナ氏は校長が安室さんらに言った、こんな言葉をよく覚えている。

「一度、沖縄を捨てなさい。沖縄の言葉や文化を表現することが沖縄を大事にすることになるんじゃない。お前たち自身が沖縄なんだ。お前たちが世の中に出れば、沖縄が必ずついてくる。もっと世界のことを勉強して世界へ出ろ。お前たちの存在自体が、沖縄になるんだから」と。

沖縄アクターズスクールと創設者のマキノ氏、そしてその活動を支えたアンナ氏は確かに、沖縄や日本の枠を超えて人々の感性を揺さぶり、躍動する「人」と「一時代」を創り上げた。

あの子たちが活躍できたのは、私たちが教えたからではなく、環境なんです。そこに奈美恵がいて、ISSAがいて、大知がいて、SPEEDがいて、沖縄の才能ある子たちがたまたまそこにいて。朝から晩までワイワイ好きなことができる環境があり、テレビに出たりする刺激があり、お互いの真似をしたり、されたりしながら高めあっていく。あの子たちは、そんな環境の中、自分たちで育ったんです」

■歩んできたことが間違っていなかったと感じてほしい

そして2021年1月、アンナ氏は断絶していた父の元をおよそ20年ぶりに訪れた。

「オレはもう沖縄では終わった人間なんだ」

体調を崩した父は、柄にもなく弱音をこぼした。マキノ氏は、90年代スター発掘と育成で連携していた芸能事務所ライジングプロ・ホールディングスの平哲夫社長と2019年に再び手を組み、国際的なオーディション企画を打ち出していた。だが、コロナ禍で計画は思うように進まず、80歳の身体を支えるだけの気力を失いつつあった。

きょうだいで父を元気づけようと提案したのが、アクタースクールの卒業生が一堂に集り歌って踊る「大復活祭」の開催だった。平社長も「アクターズの功績と可能性が再び発信されるのなら」と、二つ返事で協力を申し出た。

「父の言動に傷つけられた子たちや、スクールがつらく、嫌な思い出のままの子たちもたくさんいて、その原因を私がつくったという気持ちもあります。私も含め、そんなみんなの思いを昇華させてあげたい。この出会いの全部が自分の財産だから、みんなとつながろう。歩んできたことが間違っていなかったことが確認できる、そんなイベントにしたい」

■きっかけは「ダウン症支援団体との出会い」

長い間背を向けてきた過去、父親との確執や怒りの感情に、アンナ氏自身が正面から向き合えるようになれたのは、ダンス指導を通して、ダウン症のある子やその家族と深い愛情や絆を育んでこれたという喜びと誇りで満ちあふれているからだ。

2002年に沖縄を離れてからすぐ、ダウン症の支援団体との連携でダンススクール「ラブジャンクス」を設立した。アクターズ時代、期間限定で関わったプロジェクトがきっかけになった。筋肉がつきにくいといわれるダウン症の子の身体の発達を助け、豊かな感受性をさらに引き出すことができるダンスの力に保護者や医療関係者が注目し、プロジェクトの継続を依頼されていた。

クターズの退職と同時に何もかも捨てようと思い詰めていた矢先。ダウン症のある人々が届けてくれた熱意と出会いはまさに、“希望の箱舟”になった。

■過去を否定せずに済んだのは、この子たちに出会えたから

「一度始めたらやめられない事業になる。最大の目標はとにかく続けることだと思っていました。でも、そんな目標は必要なかった。最初のレッスンで、めちゃくちゃ楽しい、私絶対これやめたくない、そう思って今日まで20年、ずっときているんです。私が今までアクタースクールでやってきたことを否定せずに済んだのは、この子たちに出会えたから。この子たちが私を指導者として継続させてくれる場所を作ってくれました」

ラブジャンクスは現在、全国で700人以上が参加する世界最大級のダウン症のある人々のエンターテインメントチームになった。スタートした当時5歳だった子が、卒業や就職を経験しながら、25歳になった今も、同じ曜日の同じ時間に欠かさずレッスンに顔を出す。

「成長をずっと見届けられることがとっても嬉しい。私の肩書きや過去の経験なんて関係なく、この人のことが好きかどうかがすべて。いろいろ考えたり、計算したりしないで、みんなお互いのことが大好き。そんな空間を作っていられるラブジャンクスが、今の私の1番です」

■教えるより、場をつくることが大人の役割

商業的なエンターテインメントの人材育成から、社会的な意義を込めた活動まで、多様な切り口で子どもたちの個性や才能に向き合ってきたアンナ氏は、子どもと関わる「大人のあり方」をどう捉えているのだろうか。そう尋ねると、すぐにこんな答えが返ってきた。

「教えること自体があの子たちを育てているんじゃない。子どもたちが思いっきり、やりたいことをやれる環境をつくってあげること。過保護にならないように見守りながら、いい形で放っておいてあげる。距離感みたいなものを大事にしながら、教えようとするよりも、場をつくる関わり方のほうが大切だと、感じています」

子どもの才能を見極め、場を用意し、自覚を導くと、成長意欲が自然と駆り立てられる。その才能を生かした仕事や役割がだれかの役に立ち、社会を明るく幸せにする――。それが、「人の育成」の一つのあり方だとしたら、アンナ氏自身が唯一無二の“成功モデル”だ。

■「お金持ちにも有名にもならなくていい。でも…」

「私の中にあるもののほとんどが、父から教えられたものです。ラブジャンクスでやっていることも、アイドルのレッスンしたり振り付けしたりしてみんなに語っていることも。自分の細胞の中に、マキノ正幸が全部入っちゃっている。父がちゃんと育てたのは、実は私しかいない。父のことは大っ嫌い。でも、ずっと尊敬しています」

父の考えや教えを継承した自覚があるからこそ、アンナ氏にはアクタースクールを辞めてから今日まで、強く意識し続けてきたことがあるという。

「私がみんなに誇れる仕事ができなかったら、沖縄アクターズスクールは“その程度”の証明になってしまう。お金持ちにも有名にもならなくていい。でも、ちゃんとみんなに恥ずかしくない、自分の才能を生かした仕事をせねばならないと思って、ここまでやってきました」

■日本を沸かせた「沖縄アクターズスクール」再び

アンナ、オレさ死ぬ気が全然しないんだよ、死ぬ理由が全然見当たらない。すごい生きると思うよ」

つい先日、すっかり元気を取り戻した父がこういってきた。

父の快復とイベント準備が進むにつれ、アンナ氏に再びアクタースクールを活動拠点の一つに加えてほしいという身近な人たちの期待の声が届くようになった。

沖縄を去った20年前を振り返って、「今の私の感覚でアクターズにいることができたら、父の代わりに大人の人たちと喧嘩せず、うまく対話ができていたはずなのに」と思うことも少なくなかった。当時はどうすることもできなかったが、「父と平社長の2人がやろうぜ、と言っている間はできる範囲で応援していきたい。いろんな人の力を借りて、いろんな人をつなぐ役割があると思っています」と語る。

沖縄を変えたマキノ氏の存在に再び光を当て、卒業生たちを故郷で結び直す。そんなアンナ氏の役割が存分に発揮されるイベント10月、沖縄で実現する。「大復活祭」はおそらく、一つの通過点に過ぎない。ここから、子どもたちのダイナミックな感性と才能を踊らせる「場づくり」を軸にした、沖縄アクターズスクールの第2幕が始まるだろう。

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座安 あきの(ざやす・あきの)
Polestar Communications取締役社長
1978年沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。朝日新聞デジタルコメントプラスコメンテーターを務める。

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沖縄アクターズスクール創設者・マキノ正幸氏の長女で同校元チーフインストラクターの牧野アンナ氏(50) – 筆者撮影

(出典 news.nicovideo.jp)

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