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韓国人は、漢民族に「臭穢不潔(極めて臭くて不潔)」と蔑まれたツングース系民族「濊」の末裔なのか
朝鮮民族の祖先であるツングース系民族は古代中国で、「?(わい)」や「貊(はく)」と呼ばれていました。「貊」は日本語で「えびす」と訓読みし、蛮族を指します。
問題は「濊」の字です。濊は『漢書』武帝紀では「薉」、『漢書』食貨志では「穢」と表記され、『三国志』や『後漢書』では「濊」と表記されています。いずれも「穢れ」を意味していると考えられています。
それにしても、「濊」という名の酷さは際立っています。どうして、こういう名を付けられたのか、詳しいことはわかっていませんが、『三国志』や『後漢書』では、ツングース系民族が極めて臭くて不潔(「臭穢不潔」)であったと記されています。
韓人は朝鮮半島の南部から中部にいた農耕民族で、半島の原住民ですが、「韓人」という明確な民族学上のカテゴリーがあるわけではなく、「三韓の地に住んでいた人々」という意味で慣習的に使われます。
歴史から紐解く朝鮮民族のルーツ
高句麗は4世紀末から5世紀に強大化し、満州から朝鮮半島北部にかけて広大な版図を形成しました。
高句麗の第19代の王・広開土王(好太王)はこの時代の王で、朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻めました。百済と同盟を結んでいた日本(大和朝廷)は軍を朝鮮に派遣し、広開土王と戦います。この戦いについて、有名な「広開土王碑文」に記されています。
朝鮮の歴史書『三国史記』によると、扶余の王族朱蒙(チュモン)が紀元前37年に高句麗を建国したとされます。さらに、扶余族は南方に拡散し、朝鮮半島南西部に百済を建国します。7世紀の中国の史書『周書(北周書)』や『隋書』では、百済の王族が扶余族出身で、高句麗王族とも血縁関係があったことが記されています。
百済の都は当初、ソウルを流れる漢江(ハンガン)の南の漢城に定められました。その後、高句麗に圧迫されて、475年、南の錦江(クムガン)中流の熊津(ウンジン)、つまり現在の公州に遷都し、更に538年に、錦江下流の泗?(サビ)に遷都しています。
泗?は新羅時代の8世紀半ばに、彼らの民族名を偲び、「扶余(プヨ)」と名付けられて、今日に至ります。百済の最後の都の扶余は百済歴史遺跡地区として、2015年に世界遺産に登録されています。
高句麗や百済の歴史からもわかるように、古代朝鮮半島はツングース系の扶余族によって支配されていました。扶余族は?や貊から派生した部族であり、これが朝鮮人のルーツであると言うことができます。
全文はソースで(宇山 卓栄)
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb0b762138288234fd8e42e35ae3b69e90fc8bd9?page=1