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【知床遊覧船の沈没事故】死亡男性のプロポーズの手紙を勝手に読み上げる…「死者のプライバシー」を暴くマスコミへの違和感
■Z世代を中心に「手紙」報道への拒絶感が広がっている
知床遊覧船の沈没事故で亡くなった22歳の男性が船上で恋人の女性にプロポーズするための手紙が駐車していた車内から見つかり、遺族が葬儀に合わせてマスコミに公開した問題は今も報道のあり方に波紋を広げている。
メディアの対応を見ると、新聞やテレビなど、いわゆるマスコミ各社は全文を掲載するなど大々的に報道した。だが特にテレビでアナウンサーや声優らが「手紙」を感情たっぷりに読み上げたことに対しては「拒絶感」や「違和感」を覚えた人が多かったようだ。
Yahoo!ニュースのコメント欄などにもそうした反応が書き込まれている。
なかでもZ世代と呼ばれる若者世代にこの「違和感」はとりわけ強いものがある。それはなぜなのだろう?
大きな事故や事件、災害などで犠牲になった人たちの「人生」や突然の悲劇で失われた「夢」について伝えることは、報道での“定石”である。
一人ひとりが持っていたエピソードを掘り起こし、失われた命の尊さを伝えて視聴者や読者に「自分ごと」として受け止めてもらう。責任の所在や再発防止などに目を向けてもらう。そのことを伝える意味を報道機関の側は疑いもしなかった。報道側として当然、読者や視聴者が知るべきこととして取材し、伝えてきた。
だが、今回の“プロポーズの手紙”報道にはネットの反応を見る限り、相当数の人たちが「違和感」を持ったようだ。筆者の周囲の若者たちは将来、報道の記者やテレビ番組の制作者を志す人が少なくない。そうした若者たちでさえ、「違和感」を持ったという反応が圧倒的に多い。SNSの時代になって、個人の“知られたくないこと”への意識が高まり、こうした「報道する側の常識」が揺らぎつつあるように見える。
■生前の文章を公開、法律上は「問題なし」だが…
亡くなってしまった人の個人的な文章(プライバシー)を遺族が提供してメディアが公開する場合、報道することは許されるのだろうか。
個人情報保護法も「生存する個人」が保護の対象となっていて死者は対象にはなっていない。法律論から言うと、それをメディアで公開することは「許される」「問題はない」というのが結論だ。
仮にそのプライバシーが故人の名誉を傷つけるようなケースであった場合でも、亡くなってしまった人が名誉毀損(きそん)だと訴えることはできない。訴えることができるのはあくまで、現在生きている人=遺族である。今回のように、一般的にその人の名誉を貶めるものではないし、遺族が承諾しているどころか遺族自身がメディアに提供しているケースだと法律上の問題にもなりようがない。
ところが、ネットなどの反応を見ると「死んだ人のプライバシーの侵害だ」という反応が少なからずある。これは筆者の周囲の大学生の中にも同様にある姿勢だ。
■「事故の理不尽さを伝えたい」報道の理屈が通じない
近年、多数の人が犠牲になる事件や事故にまつわる報道で、メディアが死者の「プライバシー」を報道することの是非は2016年の軽井沢のバス転落事故から2019年の川崎市のスクールバスを待っていた児童の殺傷事件、京都アニメーションの放火殺人事件に至るまで繰り返し議論になってきた。
亡くなった人が抱いていた夢や将来の希望などが記事になり、無差別殺人など事件が理不尽なものであればあるほど、また被害者が若ければ若いほど故人が抱いていた「将来の夢」などを報道する傾向がある。
犠牲になった一人ひとりの生前の「思い」や「生き方」を伝えることで事件や事故の重大性を伝えていこうとする報道である。
ただし、京都アニメーションの事件で犠牲者の実名について報道することへの拒絶感が広がったように、(たとえば「報道では実名が原則」などと)従来の「報道の理屈」をいくら振りかざしてもなかなか視聴者や読者には理解されない現実がある。
■告別式翌日のワイドショーでどのように報じられたのか
では、“プロポーズの手紙”はどのように報じられたのか。
4月23日に遭難事故が発生。28日に鈴木智也さんの遺体が発見される。漁港の駐車場にとめてあった車の後部座席から恋人への手紙が発見された。5月1日に通夜、2日に告別式が帯広市で営まれて、その様子もメディアに公開された。手紙は智也さんの写真や動画とともに遺族によって公開された。
多くのテレビ局は5月2日の夕方や夜のニュースで報道した。テレビはNHK、日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビがこの手紙文から一部を引用するかたちで伝えた。
ただし民放各社が手紙文をまるまる引用したのに対し、NHKだけは全文を引用することはせず「ニュース7」や「ニュースウオッチ9」で「これからも一生一緒についてきてください」とやや短い引用にとどめたのが違う点だった。一方で、新聞は5月3日の朝刊でほぼ全紙がこの手紙の全文を掲載していた。
そうしたなかで、多くの視聴者が目を留めたのが告別式の翌日のワイドショーでの放送だった。なかでも5月3日フジテレビの「めざまし8」。手紙の文字と男性が恋人と写っている写真(女性の顔はボカシ)を見せながら、一文ずつ手紙を読み上げた。
読み上げたのはメインキャスターの永島優美アナウンサーである。永島アナは読んでいる途中から次第に声を詰まらせ、最後まで涙声で読み終えると、スタジオで涙を拭いながら「すみません……」と謝罪した。この報道の仕方には「違和感」を覚えたという視聴者が筆者の周囲でも多かった。
■メディア志望の学生も8割が「報道すべきでなかった」
筆者が日頃教えている大学生は将来的には新聞記者やテレビ番組の制作者など「報道の仕事」をはじめとしてメディアに携わろうと考えている人が少なくない。そうした学生たちというのは通常、「報道の理屈」も頭では理解しているはずの人たちである。
その中で簡単なアンケートを採ってみたところ、「プロポーズの手紙」のテレビ報道に対して、「報道として適切だった」が11%、「報道すべきではなかった」が78%、「どちらとも言えない」が11%という結果になった。
学生の中で最も多かった「報道すべきではなかった」という人たちはなぜそういう意見を持ったのだろうか。回答の一部を抜粋して紹介したい。
・私が報道する側の人間なら、プロポーズの言葉は報道したくありません。
センセーショナルな話題で視聴者を煽るための道具として扱われているようにしか思えません。感情的な考え方かもしれませんが、プロポーズの言葉は、通常でも大っぴらにするものではありません。故人となった人の了解なしにそれが公開されることに違和感があります。報道を見た時も、初めに思い浮かんだのは「勝手に公開されてかわいそう」という考えでした。今回の事件の痛ましさを伝えるにしてはあまり効果を成さないうえ、下世話であると感じました(3年生Aさん)
・こういった事件について、一人一人が関心を持てるような情報を提供したり、繰り返さないよう多方面に働きかけたりする役割を担う上で、こういったプライベートなことも重要なのかもしれません。
しかしSNSが発達した現在において、そういった視聴者の感情に訴えられるような内容というのは、報道機関の意図とは真逆に作用し、それが大きくなってしまう可能性も非常に大きいと感じます。
どれだけ言っても誹謗(ひぼう)中傷はなくならないこの状況下においては、そういった「何かしらの意見・感想を持ちやすい内容」を取り上げるかどうかは、これまでの流れにただ乗るのではなく、慎重にひとつひとつ考えていくべきだと思います。
遺族側からの提供ではなく、報道機関側の積極的姿勢で取材して記事にすることに関しても、個人的にはあまり賛同できません(2年生Bさん)
・今回のように遺族が公開する場合、その被害者の人柄を知っている人ということですから、「きっとこの子の性格なら、自分の想いを多くの人に伝えることが、この事件を考えるきっかけになってくれたら嬉しいと考えるだろう。」といったような想像があって、手紙の公開に踏み切ったのかもしれません。
それでもやはり、報道機関の果たすべき役割と天秤にかけて考えても、私個人的には「本人の意思が確認できないままに、個人的な内容を含むものを公開すること」というのは良くないと感じます(3年生Cさん)
・本人たちが望んで答えるならまだしも、了承を得られる状況でない中で公表するのはどうなのかと思いました。急な訃報を受け取った遺族にそうした冷静な判断を求めることは難しいと感じるので(外部からの圧力があったのではないかと個人的には疑ってしまいました。)、テレビ側が考慮して放送は控えるべきだったのではないかと考えます(1年生Eさん)
■「死者へのデリカシーがない」若者が抱く違和感の正体
「報道すべきでなかった」以外の回答を選択した学生たちも、今回の「手紙」の報道に対しては“違和感”があるというのが大半の意見だった。ましてや手紙文を本人ではない、第三者であるアナウンサーが感情移入たっぷりに盛り上げて伝えていたことには「報道すべきだった」と回答した学生の中にも“違和感”があったと話す学生がいた。
その中の1人、4年生のEさんとの会話である。
【筆者】もう亡くなっているので死者にプライバシーはないというのが法律の考え方だ。法律上は問題ないのに報道機関が手紙を公開することはいけないのだろうか?
【Eさん】プロポーズの言葉は極めて個人的なもの。恋人にこそ伝えるべき言葉。たとえ亡くなってしまったとしても、伝えたかった愛する人に自分の声で届けるのではなく、他人によって読み上げられるなんて、もし自分が当人だったらと思うと、とても耐えられない。死んだ人のプライバシーに対してメディアはもっとデリカシーを働かせるべきではないでしょうか。
死者であってもその「プライバシー」を尊重すべきだと主張するのはEさんだけではない。個々の人間が持っているプライバシーは、たとえ死後も本人の意思に反するかたちで公開されるべきではない、という感じ方だ。すでに亡くなっている以上、本人の意思に反しているかどうかさえ確かめようがないケースが多いのだが、Z世代はとりわけ「個人」の心の中を本人の承諾なく明かすことに対して抵抗感が強い。
こうした感覚は、読み上げる人の選定も含めて死者への「リスペクト」や「デリカシー」がなかったということに尽きるのだと思う。
■アナウンサーの涙で、故人の言葉が「消費」の対象に
学生たちの違和感の理由について聞いていると、プロポーズの手紙を赤の他人であるアナウンサーらの声で読み上げることへの違和感が特に強かった。
確かに筆者自身も「めざまし8」での永島アナの感情移入しすぎの読み上げ方を聞いて、「アナウンサーというプロの職業人としていかがなものか」と感じたし、「アナが泣くこと」でそのアナウンサーの自己憐憫のために死者が消費されてしまっているような違和感を持った。
安易な感情移入は死者を冒瀆(ぼうとく)しているようにさえ見えてしまう。書いた本人がもう読み上げることができない文章を死者に成り代わって、局アナなどの他人が読み上げることの空々しさ、薄っぺらさ、傲慢(ごうまん)さ、違和感……。
心を込めて書いた文章であればあるほど、そんなことを他人であるメディア関係者が行ってもいいのかと鋭敏な若者たちが感じるのもわかる気がする。ましてや純粋なプロポーズの言葉が「消費」の対象になってしまうことで誹謗中傷などの標的になりかねないことも若者たちは痛感している。
学生たちの反応では、手紙文を掲載した新聞の報道に対する違和感はあまりなかったが、やはりテレビで「読み上げた」ことに対する違和感は大きい印象だった。
■この違和感はZ世代だけのものなのか
手紙文の報道に対するもう一つの疑問点は、問題の報道が亡くなった男性乗客と恋人の女性との写真や動画などと一緒に報道されていたことである。たとえ女性の顔にボカシを入れているケースでも、報道にあたって女性の側の親族の了承は取ったのかどうかも分からないという指摘もあった。視聴者の側からすればデリケートな話題だと感じるトピックだからこそ、そうした承諾の有無も気になる点だろう。そのあたりをやはり丁寧に説明すべきだったのではないか。
亡くなった男性乗客も22歳、まだ見つからないという恋人の女性も同じくらいの年齢だろう。まさに学生たちと同世代だからこそ、当人の気持ちになって考えると、「これは絶対に報道すべき内容だとは言えない」「手紙は報道すべきではなかったのでは」と考える人が少なくないのだろう。
学生たちの反応を見ていると、必ずしも「Z世代」だけの問題だと言えない面があるのではないかと気づかされる。ある学生からは「世代に関係がないのではないか?」という意見が届いた。
■「伝える意義がある」だけでは若い世代に伝わらない
回答してくれた学生は報道機関にこれから入社しようとしている人も、記者として入社が内定した人も複数いる。そうした人たちでさえ現状に違和感を示している。
実は最近、テレビや新聞の「報道」の現場の人たちに聞いても、従来は当然のように考えていた「報道の理屈」について若い世代から拒否感を示されるケースが多くなっているという。実名報道や被害者遺族への取材でこうした反応があるという。もちろんケース・バイ・ケースと言えるが、「どうしてそれを報道する必要があるのですか?」と若い世代から疑問を投げかけられて、職場で議論することは報道の現場にとっては大事なことだと考える。
伝える側も変わらなければならない時代に入ってきている。これまで報道機関は法律的に「正しいか」「問題がないか」「訴えられても大丈夫か」ということばかりを考えてきた。だがそれだけでは、視聴者との間に意識の乖離(かいり)が生まれるばかりだ。視聴者から見て「違和感があるかどうか」という視点をもっと入れていけば、より共感される報道を探していけるはずだ。
SNS全盛の時代になって、これまでは当然と思われてきた「報道の理屈」が通用せず、それが正しいと強弁することがかえって強い反発を浴びるようになっている。「伝える意義がある」というだけでは若い世代を説得できない現実もある。
若い世代ほど、死者についても個々人のプライバシーへの想像力が豊かで敏感だ。死者に対してもリスペクトがある扱いになっているのかどうか。彼らは敏感な感受性で注目している。法律論の観点で「正しい」報道なのかどうかだけでなく、死者に対する敬愛や追慕の念やデリカシーを持った報道になっているのか。その都度考えて議論し合う報道現場に変わっていってほしい。そうなれば今以上に「デリカシー」のある報道に生まれ変わっていくはずだ。
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上智大学文学部新聞学科教授
1957年生まれ。東大卒。札幌テレビで生活保護の矛盾を突くドキュメンタリー「母さんが死んだ」や准看護婦制度の問題点を問う「天使の矛盾」を制作。ロンドン、ベルリン特派員を歴任。日本テレビで「NNNドキュメント」ディレクターと「ズームイン!」解説キャスターを兼務。「ネットカフェ難民」の名づけ親として貧困問題や環境・原子力のドキュメンタリーを制作。芸術選奨・文部科学大臣賞受賞。2012年から法政大学社会学部教授。2016年から上智大学文学部新聞学科教授(報道論)。著書に『内側から見たテレビ やらせ・捏造・情報操作の構造』(朝日新書)、『想像力欠如社会』(弘文堂)など多数。
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知床観光船沈没事故(しれとこかんこうせんちんぼつじこ)は、2022年(令和4年)4月23日に遊覧船「KAZU I(カズ ワン)」が北海道斜里郡斜里町の知床半島西海岸沖のオホーツク海域で消息を絶ち、船内浸水後に沈没した海難事故である。 4月26日現在、「知床観光船遭難事故」「北海道知床遊覧船事故」などとも呼称されている。
115キロバイト (17,415 語) – 2022年5月27日 (金) 15:21
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<このニュースへのネットの反応>