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【芸能】少年隊・錦織一清「東山紀之の連絡先は知らない」本当のメンバー仲とジャニーさんからの金言
少年隊・錦織一清「東山紀之の連絡先は知らない」本当のメンバー仲とジャニーさんからの金言
2022年5月18日 16時0分 週刊女性PRIME
https://news.yahoo.co.jp/articles/9376082aa22c92f7ce75bfc4066742e83f6b84af
錦織一清。寄席が好きだった父親と、ジョークばかり言っていたジャニーさんの影響もあり、質問に軽快に答えていた
(出典 newsatcl-pctr.c.yimg.jp)
1980年代に歌とダンスで多くの人を魅了した『少年隊』。メンバーのひとりとして活躍した錦織一清は、当時の熱狂をこう振り返る。
「僕は東京の下町育ちのいわゆる江戸っ子。女性ファンの声援はすごく喜ばしいことですけど、どこか俯瞰して見ていましたね」
12歳のとき、姉がジャニーズ事務所に履歴書を送ったことでエンターテイメントの世界に入った錦織。’81年にジャニー喜多川さんの呼びかけで植草克秀、東山紀之との3人のグループが結成される。
◆ジャニーさんからはダメ出し続き
「当時、レコードデビューはもちろん『少年隊』としてどんな活動をしていくかもまったく決まっていなかった。それにもかかわらず、フジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演の話が持ち上がったんです。番組プロデューサーと打ち合わせをしたときも“レコードを出していない歌手を出すなんて前例がない”と難色を示されました。もし、あのときOKをもらえなければ、今の僕らはなかったかもしれません」
周囲の期待に応えるように’85年にリリースした『仮面舞踏会』は、デビュー曲にもかかわらずオリコンチャートで初登場1位を獲得。翌’86年から青山劇場で少年隊の主演ミュージカル『PLAYZONE(以下、プレゾン)』が始まるなど、着実にスターダムを駆け上がっていく。
「プレゾンはジャニーさんと事務所主導だったので、僕らがこんな曲を使いたい、こんな役にしてほしいといった要望は反映してもらえました。毎年1回、1か月間の公演を23年間青山劇場でやらせていただきました」
師であるジャニーさんからは、ダメ出し続きだった。
「全然褒めてくれませんでした。外では“少年隊は自分の最高傑作”と語ってくれたそうですが、僕らの前で決して言わなかったのが、なんか信憑性があるなとも思います。ジャニーさんが“タレントは年齢を重ねるごとに、ちやほやされて耳触りのいいことを言われるから、勘違いするんだよ”って言ってくれたことは今でも覚えていますね。それもあって、日頃から漠然と仕事をしているとファンの心を弄ぶことになってしまうなとも思っていました」
真摯に芸能活動を続けていた錦織。演劇に深く関わり続けた縁もあり、数多くの名作戯曲を生み出したつかこうへいさんに見いだされて’99年には『蒲田行進曲』の主役に抜擢される。
「つかさんの舞台は出合う前から好きでした。あの人の舞台は、稽古のときから常に全力なんです。何度も同じセリフを大声で繰り返すので、激しい稽古でしたよ。この経験が芸能人としての分岐点のひとつだったと思います」
◆少年隊のリーダーはジャニーさん
日本のショービジネスの大物2人の教えを受け、演劇に関する思いを強めていった錦織。次第に、ジャニーさんから舞台演出の仕事も任されるようになる。
その一方で、’08年には少年隊主演のプレゾンが終了するなど、グループとしての活動は縮小していったが、この方針転換は“織り込み済み”だったようだ。
「ジャニーさんは結成当時から“少年隊はグループじゃない。ゆくゆくはひとりひとりで、活動できなきゃダメだ”と言っていました。僕らは仲がよかったとかではなく、ジャニーさんのセンスで集められたところから始まっています*。最初から、それぞれが別々に活動する構想だったんですよ」
そもそも『少年隊』というグループは、ほかのアイドルとは一線を画していた。
「よく『少年隊』のリーダーは自分だと言われますが、正しくはジャニーさん。グループの活動はジャニーさんや事務所主導で決められていました。だから、僕ら3人で集まってミーティングをしたり、活動方針を決めたことは0回。後輩の『V6』や『嵐』たちはメンバー同士で話し合って活動方針を決めたりしていましたが、僕らはなかったんです」