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【歴史人】中国史書の記述が欠けた4世紀のヤマト王権の朝鮮進出 好太王碑や日本書紀に残る手がかり
しかし、その間の約150年間、4世紀にあたる時期については中国の史書にみられない。このことが、ヤマト王権の具体的な成り立ちを分からなくしている。いわゆる「謎(空白)の4世紀」と呼ばれる時期である。当時の中国では魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国時代が終わり、五胡十六国(ごこじゅうろくこく)という動乱期に突入。439年に北魏(ほくぎ)が統一するまで戦乱が続き、統一国家もなく、倭国に目を向ける余裕がなかったという事情がある。
しかし、重要な手がかりが中国・吉林省(きつりんしょう)で見つかった好太王碑(広開土王碑/こうかいどおうひ)に残されていた。この碑は高句麗(こうくり)の好太王の業績を称えるため、子の長寿王(ちょうじゅおう)が414年に建てたものだ。当時の朝鮮半島は、高句麗・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3国による勢力争いが激化していた。碑文からは、高句麗を中心とする朝鮮半島の様子、倭国の動静が確認できる。百済は399年、倭と同盟した。高句麗王は百済を討つため平壌(ピョンヤン)へ向かうが、そこで新羅から使者がきて、倭との戦いに力を貸してほしいと頼んできた。そのため高句麗王は新羅を救援した。400年、5万の軍で新羅の王都にいた倭の大軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが新羅の王都を占領した。
404年、倭の兵が帯方(たいほう/黄海道地方)に侵入してきたので、これを迎え撃って大いに破った。およそ、碑文にはこのようなことが刻まれている。百済や新羅より、海を越えて攻めてくる倭国との戦いを重視していたようにも読める。
(略)
歴史人 2022年5月18日
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