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【嘘つく韓国】「任那日本府説」 倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐…話にもならない学説だ
任那日本府説は、倭が4世紀中頃に伽耶地域を軍事的に征伐して「任那日本府」という統治機関を設置して、6世紀中頃まで韓半島南部を運営したという話にもならない学説だ。
その始まりはシンゴン(神功、ジングウ)皇后だったという。そして、『日本書紀』に出てくる神功皇后は3世紀の人物だ。神功皇后の頃には、合間に韓地百済の王歴を挟み入れた。次は『日本書紀』『神功皇后記』に出てくる百済の王歴と『三国史記』に出てくる百済の王歴を比較したものである。
『日本書紀』神功55年(CE255)百済のチョゴ(肖古)王が死んだ。 / 『三国史記』クンチョゴワン(近肖古王):CE375年王が死んだ。
『日本書紀』神功56年(CE256)百済の王子キス(貴須)が王位についた。 / 『三国史記』クングスワン(近仇首王):CE375年王位についた。
『日本書紀』神功64年(CE264)百済の貴須王が死んだ。王子枕流が王位についた.。/ 『三国史記』チムリュワン(枕流王):CE384年に即位した。
『日本書紀』神功65年(CE265)百済チムリュワン(枕流王)が死んだ。叔父の辰斯が王位を奪って王になった。 / 『三国史記』チンサワン(辰斯王):枕流王の弟で、枕流王が死んだ時、太子が幼かったので叔父の辰斯が王位についた。(CE385年)
百済の肖古王(在位CE165~214)と近肖古王(在位CE346~375)は全く別の人物だ。王子貴須(在位CE214~234)と近仇首王(在位CE375~384)も別の人物だ。枕流王(CE384)が即位したが、1年後に死んで、弟の辰斯王(在位CE385~392)が即位した事実だけが一致する。これも『日本書紀』と『三国史記』の該当年度は120年の差異がある。
日本の学者たちは、肖古王と近肖古王、王子貴須と近仇首王を同様の人物と断定する。ここには何ら適当な根拠もない。名前が似ているから、同じ人物とみなすべきということだ。そして、神功皇后の頃に起こった出来事を、どれも120年ずつ遅らせて適用しなければならないと主張する。いわゆる「120年二周甲説」の適用だ。
なぜなら、二周甲説を適用してこそ、4世紀中頃から始まったという任那日本府説を取り付けられる根拠を都合することが出来るからだ。日本の学者たちは、この120年二周甲説の適用を主張して、CE369年からCE562年までの約200年間、倭が韓半島南部地域を支配したという「任那日本府説」を連結している。
広開土太王碑文の記録から、広開土太王が日本列島を焦土化した時期がCE396年とCE400年だ。また、宋書に出てくる記録を見れば、倭5王が宋国に使臣を送った時期がCE421~479年だ。この時は倭国に百済のタムロ(檐魯)があった時期であって、倭5王は百済の主タムロの王たちだった。広開土太王の日本列島侵攻時期と倭国五王の宋国朝貢記録などを見ると、CE369年から約200年間の「任那日本府説」は、いくら結びつけようとしてもできない事件だ。
このようなことを勘案すれば、神功皇后の頃から120年二周甲説を適用するのは時期的に合わない。仮に、神功皇后が実際の人物だったとすれば、CE201~268年の期間中に大和倭朝廷が九州にいた百済分局のクダラと力を合わせて、九州にいたまた他の韓人たちの分局と戦争を行った記録と見るべきだ。
日本の学者たちが主張してきた「120年二周甲」説の適用は全て適用できるものでもない。第21代雄略の代に至っては、年度の差異なく元に戻っている。日本の学者たちは「任那日本府説」を主張するために、神功皇后の年代を120年遅らせるべきだと張したが、120年遅らせてみても、広開土大王の日本列島侵攻時期と宋書に出てくる倭5王の朝貢記録は、任那日本府説と時期的に合わないのだ。
ペ・ジョンドク歴史コラムニスト
蔚山第一日報(韓国語)
http://www.ujeil.com/news/articleView.html?idxno=303426