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【画像】魅惑の『カレン・カーペンター』ドット・コム
カレン・アン・カーペンター(Karen Anne Carpenter、1950年3月2日 – 1983年2月4日)は、カーペンターズのヴォーカリスト、ドラマー。声種はアルトで、3オクターブの声域を持っていた。彼女の声の美しさについては、ビートルズのジョン・レノンやポール・マッカートニーをはじめとした一流のアーティストたちも絶賛している。
14キロバイト (1,933 語) – 2022年4月20日 (水) 10:08
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70年代に日本でも一世を風靡。
90年代には「I Need to Be in Love(青春の輝き)」などがTVドラマのテーマ曲に、00年代にはバラエティ番組でも「Top of the World」が起用され、「泣ける曲」とリバイバルブームまで起こったカーペンターズ。
60年代後半から70年代を駆け抜け、ポップス界の伝説的バンドは83年、ボーカルの死という痛ましい形で活動を終えた。
なぜカレン・カーペンターは、死なねばならなかったのか。
そこには、現代にも通じるジェンダーロールと仕事での活躍、ふたつに引き裂かれた働く女性の姿があった。
◆天真爛漫なスポーツ女子
食べることも大好きで、イノセントで天真爛漫な性格から多くの友人に恵まれた人気者、カレン・カーペンターは長男リチャードに後れること4年、1950年に生まれた。
父親は伝道師の両親のもとに生まれた会社員、母は専業主婦。
熱心なメソジスト派の信者で、きょうだい二人も洗礼を受けている。
リチャードがピアノの練習に精を出す傍ら、カレンといえば楽器は何をやっても続かず、すぐ野球をしに出掛けてしまうような活発な性格だった。
そんな彼女が唯一本気になれたのがハイスクールのマーチングバンドで出合ったドラム。
しかしドラムを担当する女性など当時は数少なく、「女のやることじゃない」と両親は反対。その両親を説得して兄のバンドのドラマーに就任したのが、彼女のキャリアのスタートだった。
◆天性の声
だが1966年、初めて契約しようとしていたレコード会社が、家族も、そしてカレン自身も自覚していなかった才能を見出す。
「バンドを売り出すためにはボーカルが必要だ」と説得されたリチャードは、あるとき急遽カレンに歌わせることに。妹の才能を知っていた兄が披露させた天性の歌声は比類のないもので、レコード会社はリチャードなしでカレンとだけ契約を結ぼうとした。
小さな会社では3人組のバンド全体を売り出す資金が足りなかったのだ。でもリチャードの才能しか信じていなかった母親は、ここでも反対する。
母アギネスは「女は主婦としての能力があって一人前」と考えていた節がある。
息子のためならLAに一家で引っ越しすらする一方で、自分が一度過小評価した人間の価値が上がることを認められず、知らず知らずのうちに才能を潰してしまう多くの人たち同様、お転婆で男勝りな娘がドラムを始めるときも、歌手デビューするチャンスにも立ちはだかった。
母親は、この後一生涯、カレンが類まれな才能を持っていることを認めなかった。
のちにリチャードが「寝起きでレコーディングすることができた」と形容するほど天才的な声帯。
カレンは生涯その声の価値を低く見積もっていたところがあり、謙遜してこう表現したという。「私は、ただ口を開いて歌っているだけ」。
レコード会社がその才能を諦めるはずもなく、結局はそのままカレンとソロ契約という形で収まり、リチャードは添え物のように扱われたが、この計画は最終的にはうまくいかず、カーペンターズのデビューはもう少し先になる。
◆デビュー後、即スターダムへ
ある日バート・バカラックの「Close to You」をカバーしている姿を見ていたA&Mレコードの敏腕マネージャーがふたりのプロモーションを買って出たことで、1968年中ごろデモテープを完成させ、1969年「カーペンターズ」として契約、「Ticket to Ride(涙の乗車券)」を発表。
ファーストアルバム「Offering(翌年Ticket to Rideとして再発売)」を発売し、これがビルボードホット100に入ったことで、ようやくカーペンターズとしてはばたくことができた。
そして次なるシングル「Close to You(遥かなる影)」は初週ビルボード56位から2週目には7位にジャンプアップ、あっという間にNo.1に輝く。
これをタイトル曲にしたセカンドアルバムはリチャードのアレンジ力も存分に反映された。
「Close to You」とともにシングルトップ1,2を独占した「We’ve Only Just Begun」(ともにゴールドディスク)は、実は、カーペンターズによって編曲されるまで、銀行のCMに流れていたただのコマーシャルソングだった。
◆「太っちょの妹」と呼ばれて
こうして音楽界の大舞台に姿を現したことで、人々の注目を集めるようになったカーペンターズ。
しかし皮肉なことにそれがカレンの命を縮めることになる。当時はロックが若者からの熱狂的支持を集めていた黄金期。ソフトなサウンドで「子供でも聞ける」ポップとしてマスに受け入れられ、ふたりが‟アメリカの若者の手本”ともてはやされることはミュージックシーンにとっては揶揄の対象ともなった。
そんなとき地元紙がカレンのハイスクールでの写真を差し「chubby sister」と紹介したのだ。
「太っちょの妹」。思春期の頃から体形を気にしていたカレンは、このことで食事に対して非常に気を使うようになっていった。さらに、彼女の才能がカレンの体形へのコンプレックスに拍車をかける。
✔(2019.12.10 訂正:“chubby sister”と記載したのは『ビルボード』ではなく地方紙「サンディエゴ新聞」= 『Billboard』1989年1月21日号参照 )
あくまでドラマーであり、バンドの一員として後ろでスティックを振るっていたカレンに、リチャードもスタッフもフロント・パーソンとして前に出るよう説得。
本来控えめだった彼女にとってはバンドの後ろにいられるドラムの位置から歌うのは心地よかった。
しかし売れっ子になったことで、カレンの歌声を聞きに来ている観客の、歌っている姿をきちんと見たいと思う要求に応えないわけにいかなくなったのだ。
たとえ、人目にさらされることでカレンの心的ストレスが急増しても……。
“What to say to make you come again / Come back to me again(あなたを取り戻すにはなんて言ったらいいの? 戻ってきてちょうだい)”
「Super Star」
ダイエットのためケーキを出されてもほんのひと口かじるだけの生活。「Super Star」は、「ドラムという安住の地にいた自分は二度と戻ってこない」と歌っているようにも聞こえる。
◆“望まれる自分”になるストレス
「あなた、私に太っちょ(chubby)って言ったこと覚えてる?」 久々に実家に戻ったカレンは、母に痩せていると責められたとき、リチャードに向かって言い放ったという。この頃、食事の場はカレンにとって、皿に乗っている食べ物を右に左に転がすための場でしかなかった。減っているのはコップの中の水だけ。周囲の人たちの望む姿になるべく、痩せ続けていった。
‟I know your image of me is what I hope to be(あなたが私にもっているイメージは、私がそうなりたいと思う姿なの)”
「A Song for You」
日本でのツアーを終えて、兄妹が建ててあげた両親の家を訪れると、カレンがわざわざ買ってきた着物を母は興味なさげに早々に片付け、新居の案内を始めた。
母はカレンをないがしろにする癖を止めることができなかった。当時、ほぼ男性しかおらず、めったにいなかった女性のドラマーとして表舞台に立つ娘の行動は許せなかったのだ。
80年代くらいまでは「結婚前に一人暮らしをすると嫁の貰い手がない」と就職を避けられた日本同様、「結婚するまでは女性は家を出ない」ことがマナーだと信じていた保守的な母は、娘の自立すら阻み、カレンの一人暮らしも認めなかった。兄の説得で仕方なく兄妹同居という形でようやく認めたが、娘のプライバシーを絶対に作らせないよう画策した。
◆脂肪への恐怖
発散されることのないストレスと、栄養不足からついに体は限界を迎える。
コンサート中の舞台の上でカレンは意識を失い、卒倒。
コンサートは中断、病院へ運び込まれた。ベッドの上に横たえられた5 フィート4インチ (163cm)のカレンの体重は平均体重より16㎏下回っていたため、医師はドラッグを疑ったが、彼女が別の病に蝕まれていることに誰も気づかなかった。なぜなら彼女は休むことなくランニングやエクササイズの日課をこなしており、どこからどう見ても「健康的な生活」を送っているようにしか見えなかったから。その生活がたとえ彼女の過度な脂肪への恐怖によって支えられていても……。
こうして待機していた1975年の日本公演は中止に。
日本の地を踏む4度目のチャンスを楽しみにしていたカレンは、自分に相談もなくキャンセルしたことに激怒。
「なんで、いつも決めてから言うのよ!」 カーペンターズの顔として自立心を目覚めさせていたことに、ようやくリチャードが気づいた瞬間だった。
カレンがなんとか回復し1976年に無事終えることができた日本ツアーの2年後、今度はリチャードが倒れる。
◆“スーパースター像”と“幸せな妻像”に引き裂かれて
1978年11月に倒れたリチャード。過労から睡眠障害に陥っていた彼は、睡眠薬中毒になっていた。リハブのためリチャードが休業をとるタイミングで、ついに幼少期から離れることのなかった兄と妹は私生活で袂を分かち、カーペンターズからそれぞれ独立した生活を送り始める。
1980年、カレンはソロ活動を始めるも、リチャードから冷めた反応しか得られずアルバム発売を断念。
その最中、上院議員の選挙キャンペーン中に出会った離婚歴があり、自分と9歳しか違わない連れ子もいる年の離れた不動産実業家トム・バリスと電撃結婚(写真)する。
しかしその結婚も、わずか1年強で破綻。両親の訓えから、専業主婦願望を持っていたカレンだったが、スーパースターを求める周囲は、それを許さなかった。
コンサートで忙しく飛び回る間は、ほぼ会えない生活。そんな生活から抜け出すべく出産を望んでいたが、トムはなんとパイプカットをしていたためそもそも子供ができない体だったことが判明。
しかも、散財を繰り返した夫のトムは妻から金を借りる日々。その額は現在の価値にして1500万円。夫のために食事を作って待っている生活を望んでいた彼女に、夫が働き続けることを希望したのにはそういった背景があった。彼女の資産を巡る吝嗇の夫との争いを経て、拒食症は加速。食べ物を口に入れることすらできなくなっていた彼女に、一歩ずつ死の影が近づいていた。
“We’re lost inside this lonely game we play. (私たちは自分がプレイしている孤独なゲームをしているうち迷子になってしまったの)”
「This Masquerade」
◆治療のチャンスを奪った母
ようやく家族は心理的障害を専門とする博士に相談。すると博士は何事も自分の意志が通らないカレンにとって、唯一自分の思い通りになる体重に固執していることを指摘。
カレンの決定を尊重すること、そして何より期待したことをカレンがやらなかったとしても愛していることを示すことが重要だと伝える。
しかし、無駄だった。両親は治療を拒否。彼女の従順さ、世間の言う正しい女性像に価値を見出してきた家族にとって、とくに母親にとっては「自由に生きても愛している」と伝えることは、自分の子育て自体を否定する行為だったからだ。
再び入院し、点滴によってなんとか生きるために必要な栄養を取るようになったカレンは、ベッドの上でドラム・スティックをひたすら叩いていたという。
“We have left all the darkness far behind us. All those hopes that we held along the way have made it to this day…(辛い日々にお別れしたわ。希望を抱いて進むこと。それはきっと幸せに満ちた今日のためだったのね)
「Those Good Old Dreams/遠い想い出」
◆「私のママになってよ」
なんとか生きられるまでに回復したカレンは、実家に引き取られる。家族で退院を祝い、仕事も順調にこなし始め実家で過ごした久しぶりの家族団らん。食卓に出てきたものは、兄リチャードの好物。家族のため、必死で少しずつ食事を口に運んだカレンは、母の足元に頽れこう懇願したという。
「私のママになってよ」。
亡くなる2年ほど前、1981年のカレン。
体重は30㎏台まで落ちていた。
長年の摂食障害と体を酷使したエクササイズによりボロボロになっていたカレンの心臓は限界に達し、1983年2月4日、わずか32歳の若さでこの世を去る。
歴史に名を遺すシンガーは、最後まで周囲の都合と母親の期待に引き裂かれた。カレンの死後15年を経て、日本では東電OL殺人事件が起こる。
望まれる女性像と活躍する女性像の狭間で、唯一コントロールできる身体を消費するように死んでいった彼女たちから、まだ世界は学んでいない。