ブチャ虐殺は日本でも起こりうる、ウクライナ問題は明日のわが身

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ブチャ虐殺は日本でも起こりうる、ウクライナ問題は明日のわが身

「日本もウクライナからの避難民を受け入れることになった」「希望者を政府専用機で明日運んでくる」

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 これは4月4日の発表で、翌5日、政府専用機が運んできた避難民20人が羽田空港に降り立った。

 人権問題で尻込みしがちであった日本にとっては大きな「一歩」に違いないが、ロシアウクライナ侵攻が始まってからすでに40日以上が過ぎ、また避難民は420万人を超えている。

 避難民の発生は侵攻の直後から日々報道されてきたし、周辺国は避難民を数十万人単位で受け入れ、ポーランドでは250万人に達しようとしている。

 隣国のモルドバに至っては人口の15%に相当する約39万人を受け入れ、ホスト国自体が身動き取れない状況となりつつあり、該国首相が国際社会の支援を呼び掛けている。

 どの国も至短期間の避難民受け入れで、軋みが生じかねない状況になりつつある。

 一介の我々市民は知る由もないが、報道される以上に早い段階から、避難民は深刻な問題であることが提起され、あるいはウクライナや在日ウクライナ人などから受け入れ打診・要請が来ていたのではないだろうか。

人権担当補佐官は飾りか

 岸田文雄内閣(第2次)は中国を念頭に人権担当の首相補佐官を新設し、大臣や要職を経験した中谷元氏を任命した。

「人権上から避難民を受け入れることにした」と政府は述べている。ならば人権担当補佐官こそがその任に当たるのが相応しく、首相特使として指名されるべきではなかったか。

 首相にどんな考えがあってのことか分からないが、特使にはコロナ問題の最前線で戦っている厚労相を指名した。当該大臣がコロナ感染者濃厚接触者と判明すると、外相を指名した。

 人権担当の補佐官設置は単なる看板に過ぎないのか、あるいは設置目的とされた中国の人権に特化してのことだったのか。

 ポーランドにおける避難民視察では、中谷補佐官が「金魚のフン」のごとくに林特使(外相)の後をついて回っている。

 日本は人種差別撤廃を世界で最初に打ち出した国である。

 避難民の受け入れが画期的のように報道されているが、待ってくれよと言いたい。そうした名目での受入れは確かになかったのかもしれないが、たかが20人くらいの受け入れで騒ぐことでもないだろう。

 在日ウクライナ人男性の一人は妹とその子供2人を呼び寄せようと思い、受け入れを表明した自治体などに問い合わせたが「何も具体的に決まっていない」と返答され、断念したという。

 政府をはじめ、受け入れを表明している地方自治体や企業でも、どのように受け入れるかの計画を持っていなかったということだ。これでは、どのように受け入れてもらえるのか不安であろう。

 普段から難民や今回のような避難民などについて、事例ごとにケーススタディをして、小修正で対応できるようにしておかなければならないのだ。

 先のアフガニスタン政変では自衛隊機の派遣を逡巡しているうちに、空港が攻撃され希望者を集めることができず、運べたのはたったの1人でしかなかった。

 法令遵守は大切なことであるが、法令自体が非常時にも運用できるように想定していなければ一文の価値もない。現実に沿った見直しを早急に進める必要がある。不足の法令は新しく整備しなければならない。

失望と恥ずかしさの連続

 日本は「世界で最も愛されている国」であり、「戦争をしていない平和な国」とみなされている。

 この2つのフレーズを組み合わせると、何万人とは言わないまでも千人台の来日希望者はあろうかと思われたが、20人でしかなかった。やはり、遠い東洋の国だとつくづく感じさせられる。

 戦後日本の第1の失望(失策)は、拉致被害者の救出ができていないことである。

 政府認定の被害者は十余人に過ぎないが、警察や民間団体の調査で拉致被害の可能性がある者は800人前後とされる。

 新しい首相が誕生するたびに、歴代首相は記者会見で「拉致問題は最重要課題で、自ら先頭に立って自分の内閣で解決する」といった類の口上を述べてきた。

 しかし、北朝鮮が国家権力をもって日本人拉致を行ってきたことが発覚してからも一向に進んでいない。

 無辜の市民がある日突然、国家権力をもって北朝鮮に連れ去られたのだ。仄聞するところによると、拉致は過去の問題ではなく、昨日今日も起きている可能性がある。

 スパイは国内に跋扈し、たとえ現場を見られても日本の法体系では国家権力が機能することはないと知り尽くしているからだ。

 本来守られるべきは拉致被害者の人権であるが、日本には拉致した当人の釈放に署名までした首相経験者がいる。このように、道徳的に自堕落な国に成り下がっている。

「最重要課題」も「我が内閣で」も言葉遊びの道具となっているのだ。四半世紀どころか半世紀も言葉遊びされては、被害家族の命が持たない。実際、先頭に立って引っ張ってきた横田滋さんなど、次々に亡くなっている。

 失望の記憶は湾岸戦争でも見られた。

 ブッシュ(父)大統領は日本に支援を要請してきた。米国の考えでは部隊の派遣であったわけであるが日本はできない。

 悩んだ政府は10億ドルの拠出を決した。しかし、米国はさらなる要求をしてきた。結果的には130億ドル(当時の為替レートで日本国民当たり1万円)を拠出したが、解放されたクウェートがニュヨークタイムズに出した感謝広告に日本の国名はなかった。

 戦場や混乱する場面における「Show the Flag」とは、資金援助ではなく兵員(日本の場合は自衛隊員)の派遣以外にないということである。

 ちなみに、現地司令官であったシュワルツコフ大将は、日本の支援金は戦場で自由に使えたので非常に役立ったと回想録に書いたが、国家レベルの評価には繋がらなかった。

 この反省からペルシャ湾での海自による機雷掃海、インド洋における給油支援、次いでカンボジアへの陸自PKO派遣となっていくわけである。

 日本の「慎重さ」と言えばそれまでであるが、時代認識と世界の潮流に対する「政治の鈍感」ではないだろうか。

「鈍感」ゆえに、議して決しないどころか、いろいろなところで法令の不足が明らかになっているにもかかわらず、テーマにさえ取り上げようとしない「機能しない国会」であり続けている。

憲法の前提が間違っている

 ロシアウクライナ一方的に侵攻した現実を前にして、日本の憲法が「砂上の楼閣」でしかないことを思い知らされる。

 ウクライナで起きている最大の教訓は「諸国民の公正と信義に信頼は置けない」「戦争は欲せずとも起こる」「抵抗しなければ無辜の市民が虐殺される」ということではないだろうか。

 日本の憲法は「国際社会の信義」を大前提にしている。日本人は憲法前文が現実世界であり、国際社会には「寛恕」の心があって「誠意」を見せれば「許してくれる」と見ている。

 この前提は誤りであるということである。

 前文は「理想」であり「期待」ではあっても、現実には侵略を抑止し、起きた場合には対処する意志と能力が欠かせないということである。

 かつてその議論を丁々発止と2人の大学教授が行い、世間は是とも非とも判定しなかった。要するに日本的には侵略を受けても「手を挙げて相手を迎え入れれば幸せに過ごせる」と考える国民が半分くらいはいるということである。

 平時の備えと徹底抗戦を説く関嘉彦教授と、非武装・無抵抗降伏を説く森嶋道夫教授が論戦したのはソ連の脅威が最大と見られた1978、79年であった。

 森嶋教授は第2次世界大戦スイスを守ったのは民兵組織ではなく、中立国という政治的地位がヒットラーをして回避させたと主張した。

 そして結論的に「徹底抗戦して、玉砕して、その後に猛り狂ったソ連軍が来て惨憺たる戦後を迎えるより、秩序ある威厳に満ちた降伏をして、その代り政治的自決権を獲得する方が、ずっと賢明だ」とした。

 ところが、森嶋教授には事実誤認があるという異論が多く出た。

 スイスは周りを枢軸国に囲まれたときは一時、徹底抗戦の意思を失いかけたが、アンリ・ギザン将軍が全軍の指揮官スイス建国のユトリに集め、伝統的に国境に配備していた軍を、アルプスの山岳地帯に結集し、主要道路、トンネル、鉄道を固めて持久戦に持ち込み、いざという時にはそれらを爆破するとした。

 ベルリンローマを結ぶ要路が爆破されては、枢軸側がスイスを押さえても徒労に終わるし、他方で、イチかバチかの将軍の作戦計画は心理的にスイス国民を奮い立たせ、スイス徹底抗戦を内外に闡明した。

 関・森嶋論争が行われていた当時の反響を見ると、互角というところであった。

 時代はソ連に代わって登場した中国が、日米欧の自由・民主主義に代わる全体主義で統治する覇権を求めている。

 また、ウクライナではロシアの残虐行為が次々に明らかになっている。「威厳に満ちた降伏」も「政治的自決権」も期待できないことが分かる。

 日本の憲法が前文で規定する前提(「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」)と、現実の世界(力で現状を変更したがる国の存在)は全く異なっている。

 早急に憲法を国会で議論しなければ、日本の明日はないのではないだろうか。

浅薄すぎる「降伏」推奨論

 ロシア軍キーウから去った惨状が公開されている。ロシアは情報戦で「露軍の仕業ではない」と強調しているが、多くのウクライナ人の死は、敵対勢力の蛮行と見る以外にないであろう。

 こうした惨状を見る前、すなわちロシアが侵攻して間もなく、元大阪市長のH氏やテレビ朝日コメンテーターT氏はテレビを通じ、また大学教授らは紙誌やSNSなどを通じて、「ウクライナは降伏すべし」「守るべきは命である」といった主張が散見された。

 ウクライナ国民(ばかりでなく愛国心を持つどの国民も)の心情を少しも分かっていなかったという以外にない。

 ウクライナ人の「命」を思っての降伏論であったのだろうが、国際政治学者で慶応大学細谷雄一教授は、「戦後の平和教育の悪弊」であり、“厳しい表現だが”と注釈して「戦後の日本人の精神の醜い側面」であると糾弾する(「産経新聞」令和4年3月30日付)。

 降伏論者たちは、命よりも大事なものがあるということを忘れている。

 ウクライナの人たちの戦いは、憲法前文が述べる「平和を愛し、専制と隷従、圧迫と偏狭」を取り除こうとする努力である。

 日本はウクライナ人の戦いを側面的に支援することによって、初めて「名誉ある地位」を占めることができるわけで、降伏の勧めなど思い違いも甚だしい。

「存在」ではなく「機能」する国会となれ

 ウクライナ問題は他人事ではないという意識が、日本人にも持ち上がっている。

 他人事ではないというのは、日本(領土)を虎視眈々と狙っている国が隣にあるからである。また、日本人を拉致した国もある。

 しかし、そうした国の暴挙に対処する法制が日本にはない。

 冷戦間に戦争に巻き込まれなかったゆえに、揶揄か評価かはともかくとして「存在する自衛隊」と呼ばれた。

 冷戦終結後は自衛隊がPKOや大規模災害、人道支援などで活躍するようになり「機能する自衛隊」と評されるようになる。

 しかし、自衛隊は武力集団であり、どこまでも政治のコントロール下にある。その政治が機能しないでは、自衛隊がもてる力を存分に発揮することはできない。

 能力が生かされないでは国民の負託に応えることができないばかりか、国防破綻ともなれば、国家喪失になりかねない。

 自民党憲法改正(自主憲法制定)を党是に掲げながら、いまだに実現していない。

 自民党の党是というよりも、政権党として憲法問題は国家の命運にかかわると見てきたからである。解釈改憲では無理があることはしばしば露呈してきたが、その都度弥縫策を講じてきたにすぎない。

 新型コロナウイルス感染症が蔓延してから医療崩壊が何度叫ばれただろうか。その都度、自粛が要請され、その場対処的な法改正などを行ってきたが、コロナ蔓延から侵攻対処などのあらゆる事案を含めた包括的な国家の非常事態と捉えた抜本的な法改正ではなかった。

 個人の権利などが過大視されがちであるが、国家非常時の義務と権利について、包括的に考えなければならないのではなかろうか。

 熟慮や合意などは素晴らしい言葉であり、民主主義社会にとって不可欠である。しかし、それゆえに非常時に国家が一団となって対処できないではあぶはち取らずで、国家崩壊をもたらす。

 全体主義国家の「即決」を評価するわけではないが、民主主義国家、その中でも日本の国会は余りにも「決めない」国会になっているのではないだろうか。

議せず決せずの国会でいいのか

 ドイツは機会を見事に利用している。

 第2次世界大戦で侵略の烙印を押されたドイツの戦後は抑制的であった。しかし、ソ連の解体の機を利用して東ドイツを吸収した。

 また、NATO北大西洋条約機構)に加盟しながらも、域外派兵を頑強に禁止してきたが、ユーゴスラビアの解体に当たって域外派兵を可能とした。

 今回のウクライナ問題に関しても当初は対ロ制裁に抑制的で、ウクライナへは「ヘルメット」の供与くらいしか考えていなかった。

 しかし、他の欧州諸国から批判されると、即座に武器の供与も決定した。現政権は前政権よりもリベラル色が強いが、EUの一国という視点から、素早い反応をしたわけである。

 ドイツは憲法も約60回変更しているし、東ドイツの吸収、独軍の域外派遣、ウクライナへの兵器支援など、国際情勢の変化に機敏に対応してきた。

 日本ではいろいろな問題が「百年一日の如く」で、議論がくり返されいつ終わるか分からない。政治は議論するだけでなく、法律として実を結ばなければならない。

 先述の憲法改正ばかりでなく、皇位の安定的な継承、核問題(最近では核シェアリング問題)や自衛隊を含めた安全保障、マイナンバー(何時になったら全国民が加入するのか)、処理水問題、さらには電力の安定供給とエネルギー・環境問題など、どれほど真剣な議論が行われ結論に結びついているか疑問だらけだ。

おわりに:ポリコレ対策を真剣に

 さらに今日の社会情勢を見ると、リベラルポリコレと呼ばれる範疇の猛威、いや幽霊と言った方が相応しいのが吹き荒れている。

 人間の身体的本性から分離した観念に基づくもので対処にも困難が伴う。

 民主主義社会は議論を尽くすことであろうし、少数者も見落とさないという視点を巧妙につき、権利の拡大を要求してやまない。

 少数者の権利が大切なことは言うまでもないが、民主主義にはそれなりの合理性がある。少数野党に過大すぎる質問時間を与えるのは原則の逸脱でしかない。

 いま問題になりつつあるのは、トランスジェンダーと呼ばれる人の扱いである。身体的には男性でありながら心が女性であるということで、女性トイレを利用し、女性用の風呂に入り、女性の競技会に参加する。

 いろいろなトラブルが発生している。トランスジェンダー擁護から、クレームをつけたり、通報したりした人が犯罪者的に扱われる矛盾が出来している。

 本論ではウクライナから見える安全保障を主体にとり上げたが、社会や教育、その他万般においてゆるがせにできない問題が出てきている。

 百年一日のような国会では日本が沈没するだけだ。「機能する国会」に目覚めてもらいたい。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  ロシアのウクライナ侵略が示唆する自衛隊の大問題

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(出典 news.nicovideo.jp)

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