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株価は上がったのに賃金は下がる…日本人をどんどん貧しくしている「円安政策」という麻薬
株価は上がったのに賃金は下がる…日本人をどんどん貧しくしている「円安政策」という麻薬
※本稿は、野口悠紀雄『日本が先進国から脱落する日』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■日本の賃金の低さは、OECDの中で最下位グループに
OECD(経済協力開発機構)は賃金に関するデータを公表している。
2020年のデータを見ると、日本は3万8515ドル、アメリカは6万9392ドルだ(2020年基準の年間実質賃金、2020年ドル表示)。日本の賃金はアメリカの55.5%でしかない。(注)
OECDのデータでヨーロッパの主要国の賃金を見ると、ドイツは5万3745ドル、イギリスは4万7147ドル、フランスは4万5581ドルなどとなっている。
人口が少ない国を見ると、スイスは6万4824ドル、オランダは5万8828ドル、ノルウェーは5万5780ドル、アイルランドは4万9474ドル、スウェーデンは4万7020ドルなどと、概して高い。
大ざっぱに言えば、日本の水準はこれらの国の6~8割程度ということになる。
韓国の賃金は4万1960ドルであり、日本の値はこれよりも低い。
日本より賃金が低い国は、旧社会主義国と、ギリシャ、イタリア、スペイン、メキシコ、チリぐらいしかない。日本は、賃金水準で、いまやOECDの中で最下位グループに入っている。
(注)実質賃金指数は「毎月勤労統計調査」で算出されており、もともとは1952年からのデータがあった。しかし、2019年の統計不正事件の影響で過去の部分が削除され、現在でも1990年以前の数字が復活していない。したがって、これ以前を含めた長期の分析を行なうことができない。
■90年代半ばから1割以上賃金は減っている
日本の賃金は、昔から低かったわけではない。時系列にデータを見てみると、1990年代後半以降、日本では賃金が上がらなくなったのがわかる。
以下では、日本の賃金の長期的動向を、法人企業統計調査のデータを用いて分析しよう。
従業員一人あたりの給与と賞与の合計年額について、1960年からの推移を見ると、次のとおりだ。
まず、高度成長期にはめざましい上昇を示した。1960年度に22万円だったのが、1970年度には78万円となった。その後も成長は続き、1980年度には246万円となった。
ところが、1997年度の391万円をピークとして、その後は低下した。2005年度には352万円となった。その後はほぼ横ばいで、2020年度は370万円だ。
名目賃金は、物価動向の影響を受けている。1970年代には、オイルショックの影響で物価上昇が激しかった。消費者物価指数(生鮮食品を除く総合:2020年基準)は、1970年度に31.7であったが、1995年度には96.5になった。これに伴って、名目賃金が上昇したのだ。
しかし、その後、消費者物価の上昇率は低下し、2020年度の指数は99.9になっている。
消費者物価指数を用いて1970年度を100とする実質賃金を計算すると、図のとおりだ。(注)
実質賃金指数は、1970年度から1995年度の期間に、100から290まで、2.9倍になった。しかし、1995年度から2020年度の期間では、290から257まで、11.4%ほど下落している。このように、1995年頃までの上昇期と、それ以降現在までの下落期の間で、大きな変化が見られる。
■円安政策を求めた理由
技術革新などによって日本国内の生産性が上がれば、円高になっても企業の売上や利益は増えるので、株価も上がる。それだけでなく、賃金も上がる。1980年代頃までの日本では、このようなことが生じた。
しかし、1990年代中頃から、日本経済は変質した。円高になると輸出企業の売上や利益が減って、株価が下がる。そのため、市場の実勢に逆らって、円安を求める圧力が強まった。
円安になれば、輸出企業の利益が増えるからだ。そして、株価が上がる。この相関関係は、統計的にも明らかに見られる。企業の利益が増えることも、株価が上昇することも、多くの人々に歓迎される。したがって、経済政策は、円安を求めることになる。
■円安になると企業の利益が増えるカラクリ
では、円安になると、なぜ企業の利益が増えるのか? 次のような簡単な数値例で説明しよう。
いま、日本国内で300万円の自動車を生産しているとする。これに要する人件費(賃金)が100万円だとする。そして、企業の利益は売上の1割だとする。
為替レートが1ドル=100円であれば、この車をアメリカに輸出すれば、3万ドルで売れる。日本企業の利益は3000ドルだ。
ここで、何らかの理由によって、為替レートが1ドル=110円になったとしよう。
アメリカでの販売価格3万ドルは不変だが、日本円での売上は330万円になる。そして企業の利益は、その1割である33万円になる。企業の利益が増加するので、株価が上がる。
円安になるだけで、何も努力せずにこうしたことが起きるので、「心地よい円安」と言われる。円高になれば、これと逆のことが起きる。
■円安に隠れた二つのトリック
①労働者の負担によって、企業利益が増える
以上は、一見したところ魔法のように見える。しかし、ここには、二つのトリックがある。
第1は、労働者の賃金が100万円のままで変わらないことだ。これがトリックなのは、労働者がアメリカで買えるものは減るからだ。
1ドル=100円のときには、100万円の賃金で1万ドルのものを買える。しかし1ドル=110円になれば、9091ドルのものしか買えなくなる。
つまり、ドルで評価した労働者の賃金が安くなるのだ。国際的な観点から見れば、賃下げがなされたことになる。しかし、それは、日本の国内では、なかなか気づかれない。
円安で企業利益が増えるのは、魔法ではない。気づかれにくい形で賃金カットができるからだ。つまり、労働者の負担によって、企業利益が増えるのである。
本来は労働者の味方であるはずの民主党までが円安を求めたことを見ても、以上のメカニズムが、いかに気づかれにくいものであるかが分かる。
②輸入物価の値上がりを消費者価格に転嫁
「トリックは二つある」と述べた。第2のトリックは、消費者物価への転嫁だ。
円安によって輸出物価は高まるが、同時に輸入物価も同率だけ高まる。だから、貿易収支が均衡しているとすれば、為替レートが円安になっても、企業の利益が増えるはずはない。
ところが、企業は、輸入物価の値上がりを消費者価格に転嫁する。実際のデータを見ても、輸入物価の変化は、ほぼ半年遅れて国内の消費者物価に影響している。
その一方で、輸出物価の上昇に伴う利益を労働者に還元しない。このようなメカニズムが、企業利益を増加させるのだ。
■アベノミクスは労働者を貧しくして、株価を引き上げた
仮に為替レートに不均衡があれば、原理的にはそれを調整しようとする力が働くはずだ。調整過程は、不均衡がなくなるまで続くはずである。
ところが、円高になると、輸出の有利性は減殺される。本来は、円高を支えるために、企業が技術革新を行い、生産性を引き上げるべきだ。しかし、それが大変なので、企業は円安を求めたのである。このため、日本の実質賃金は上昇しなかった。
物価が上がらないのが問題なのではなく、実質賃金が上がらなかったことが問題だ。
賃金が上がらず、しかも円安になったために、日本の労働者は国際的に見て貧しくなった。
日本の企業がめざましい技術革新もなしに利益を上げられ、株価が上がったのは、日本の労働者を貧しくしたからだ。これこそが、アベノミクスの本質だ。
■株価の上昇を多くの国民は評価していない
アベノミクスの評価に関してよく言われるのは、目標としていた消費者物価上昇率2%はできなかったものの、株価が上昇したことがプラスだったということだ。
しかし、これは株式保有者の立場からの評価であって、国民の大部分である勤労者の立場からのものではない。
株価の上昇は、先述したように、ドルで評価した日本人の賃金を抑えたことによって実現したのだ。技術開発や新しいビジネスモデルの創出で実現したことではない。それにもかかわらず、こうした評価は、政治を動かす力にはまったくなっていない。これが日本の悲劇だ。
■円安という「麻薬」に頼って技術開発を怠った
日本の生産性が上がらなくなったのは、日本が新しい技術体系(とりわけ、インターネットを中心とする情報技術)に対応できなかったためだ。
ところが、円安になれば、企業の利益が回復し、株価が上昇するので、あえて技術革新をする必要性は感じられなかった。技術開発には投資が必要だし、労働者の配置転換も必要だ。そんな努力をしなくても、円安でごまかせるのなら、そのほうがずっと楽だ。
円安とは、痛みどめの「麻薬」のようなものなのである。本当に必要だったのは、技術開発による生産性の向上という「手術」だった。
実際に行われたのは、国際的に見た日本人の賃金を下げることによって、利益を増大させることだったのだ。それが続いて、ついに円の購買力が「50年前に逆戻り」というところまで来てしまった。
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一橋大学名誉教授
1940年東京生まれ。63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省入省、72年エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問を歴任。一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論、日本経済論。著書に『「超」整理法』『「超」文章法』(ともに中公新書)、『財政危機の構造』(東洋経済新報社)、『バブルの経済学』(日本経済新聞社)ほか多数。
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