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「中世の日本にはたくさんの奴隷がいた」約20万円で人買い商人に売られた14歳少女のその後
※本稿は、清水克行『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』(新潮社)の一部を再編集したものです。
■能「自然居士」で描かれた“身売り少女”の悲劇
世阿弥(1363?~1443?)の父、観阿弥(1333~1384)が作ったとされる能で、「自然居士(じねんこじ)」という作品がある。
主人公の自然居士は、鎌倉時代の京都に実在した半僧半俗の説経師。彼の説法は庶民にもわかりやすい解説とパフォーマンスで知られ、彼が登壇する説法会はいつもファンで超満員だった。いわば当時のカリスマ・タレントである。
ある日、京都東山の雲居(うんご)寺というお寺での出来事である。この日は、寺の修繕費集めのための7日間におよぶ、自然居士スーパー説法ライブの最終日だった。境内は自然居士目当ての信心深い男女で大賑わい。そんな聴衆のなかに、死んだ両親の供養を願って、美しい小袖をお布施として持参してきた14~15歳の少女がいた。
じつは彼女は、自分の身を人買い商人に売って、それで得た代金で小袖を買い、両親のための読経を依頼しにきたのだった。両親の供養のために我が身を犠牲にするとは、あまりにも切ない。そんな彼女のお布施がわりの小袖を受取った自然居士は、一瞬でその深い事情を察知する。
「これは少女がわが身を売って手に入れたものにちがいない」。
しかし、彼にはどうしてやることもできない。小袖に添えられた手紙には、「こんなつらく恨めしい世など早く離れて、亡き父母とともに極楽の同じ蓮の花のなかに生まれ変われたら……」との哀切な思いも記されていた。
■それぞれの「大法」
と、そこへ非情な二人の人買い商人が少女を捜しに現れる。少女はわが身を売った後、少しの時間が欲しいといって、説法会に出向いたのだった。しかし、彼らはそのまま彼女に逃げられてはかなわないと、しびれを切らして連れ戻しにきたのである。
少女を見つけた人買いたちは、説法も聴かせず、そのまま無理やり彼女を引っ立てる。それを見ていた自然居士は、まわりが止めるのも聞かず、説法を中断して、そのまま小袖を手に彼らのあとを追って飛び出していく。
ところ変わって、琵琶湖のほとりの大津(現在の滋賀県大津市)。人買いたちは少女を陸奥国(現在の東北地方東部)に売り払おうと舟に乗せ、いまにも漕ぎ出そうというところであった。少女は気の毒にも縄で縛られ、口には猿ぐつわがかまされていた。
そこへ自然居士が追い付いて、待ったをかける。舟に取りついた彼は「小袖は返すから、少女を引き渡すように」と、人買いたちに交渉を持ちかける。これに対して人買いたちは、次のように答えて、自然居士の提案を一蹴する。
「返してやりたくても、そうはいかない。オレたちのなかには『大法(たいほう)』があって、それは『人を買い取ったら、ふたたび返さない』という『法』なのだ。だから、とても返すわけにはいかない」
■能「自然居士」ではハッピーエンドだが……
これに対して自然居士も「それならば、私たちのなかにも『大法』がある。『こうして身を滅ぼそうという者を見かけたら、それを救出しなければ、ふたたび寺には帰らぬ』という『法』だ」と、反論する。かくして両者はにらみ合いの形勢となる。
中世の日本社会は、朝廷や幕府などの定める「大法」とはべつに、様々な社会集団に独自の「大法」があって、それが各々拮抗(きっこう)しながら、併存していた。人買いたちの「大法」も、そのうちの一つである。もちろん特定のコミュニティーのなかに固有のルールが存在すること自体は、いつの時代でも決して珍しいことではない。
ただ、当時の社会の独特なところは、それが公的に定められた法に反するものであったとしても、彼ら自身、それを堂々と主張し、時としてそれが公的に国家が定めた法よりも優越することがありえたというところだ。
話は「赤信号は渡ってはいけないが、現実にはそのルールを破る人もいる」といったレベルではなく、「赤信号は渡ってはいけない、というルールがある一方で、赤信号を渡って何の問題があるんだ、というルールも存在する」という状況だったのだ。
能「自然居士」は、その後、人買いたちの求めるままに自然居士が即興でみごとな舞をまってみせて、彼らを感嘆させ、少女の解放に成功するというハッピーエンドで終わる。しかし、これはあくまでフィクション。現実の人身売買の現場では、そうはうまくいかなかっただろう。
■人身売買はありふれた「悲劇」
室町時代の文芸作品で人身売買を主題にしたものは、他にも意外に多い。なかでも有名なのは、能「隅田川」だろう。幼いひとり息子、梅若丸(うめわかまる)を人買い商人に誘拐されてしまった母が、遠く京都から武蔵国(現在の東京都と埼玉県)の隅田川まで、行方を追い求めて訪れるという話である。
半狂乱で隅田川までたどり着いた母は、渡し舟の船頭から、梅若丸は去年の3月15日にこの川のほとりで息絶えていたことを聞かされる。慣れない旅路で体調を崩した幼い梅若丸は川岸まで来たところで動けなくなったため、人買いたちに捨てられ、そのまま息を引き取ったのだった。以来、近所の人々は梅若丸の塚のまえで大念仏を催して、少年の霊を慰めているのだった。
息子の非情な運命を知った母は塚のまえで悲嘆に暮れるが、最後にわずかな救いとして、大念仏の声に混じって微かながら梅若丸の声とその姿が現れ、幻想的な気配を残したまま物語は終局を迎える。
この作品の場合は、「自然居士」と違って、人買い商人に騙されて売られてしまったケースであるが、似たような能は数多い。それだけ、当時の社会で人身売買はありふれた「悲劇」であったということなのだろう。
■人間ひとり20万円で売り買いされていた
当時、売られた男女は「下人(げにん)」とよばれる奴隷とされ、裕福な家の召使いとして使役されることになった。非人間的な「奴隷」としての扱いである。
ちなみに、当時の人身売買の標準相場は一人につき銭二貫文。現代の価値には単純に換算できないが、米相場から類推すれば、一貫文はおよそ10万円ぐらい。つまり、わずか20万円ほど、安い中古バイク一台ていどの値段で、人間ひとりが売買されてしまうのである。
鎌倉後期、大隅(おおすみ)国(現在の鹿児島県東部)の建部清綱(たけべきよつな)という武士が、財産を子供たちに相続させるために作成した財産目録が残されている(『禰寝(ねじめ)文書』)。
それなどを見ると、彼の所有していた下人は、なんと95人にものぼる。なかには下人同士で夫婦や家族を構成していた例も9組(27人)あり、おそらく彼らについては、独立して住居を営んでいたのだろう。ただ、独身男性18人・独身女性22人・父子家族3組(7人)・母子家族9組(21人)については、建部氏の館のなかで共同生活を強いられていた可能性が高い。
■東国はフロンティア
こうした富豪による大土地経営が大規模に展開されたのが、とくに東北地方だった。
当時、畿内や西日本は政治・経済の中心地であったということもあり、田畑の開発は限界近くまで進み、飽和状態に近かったが、東北地方はいまだ未開の荒野が広がるフロンティアだったのである。そこにはまだ土地は無限にあり、労働力を投下すればするだけ、富を生み出す余地があった。
さきの「自然居士」で、人買いたちが大津から琵琶湖を渡ろうとしたことを思い出してほしい。彼らは少女を最終的には陸奥国へ売り飛ばそうとしていたのである。また「隅田川」でも、梅若丸はやはり都から武蔵国へと連れられていった。
当時、身売りしたり、かどわかされた少年・少女は、フロンティアである東国に投入されるというのが定番だったのだ。
そのためか、陸奥国の戦国大名伊達稙宗(だてたねむね)(1488~1565)が定めた領国内の法律(分国法)には、下人の所有をめぐる主人間のトラブルに関する規定が具体的で目立って多く、逆に土地領有をめぐる規定は少なく、内容も形式的である。
それだけ当時の東北地方では、労働力の奪い合いが紛争の焦点になっていたのだろう。中世末期の日本の農業開発は、彼ら下人たちの辛苦で担われていたのである。
■飢饉で認められた「人身売買」の特例措置
それにしても、人間をまるでモノのように売買する「人身売買」などと聞くと、現代に生きる私たちは、まったくおぞましい忌むべき話にしか感じられない。ところが、話はそう簡単に善/悪で割り切れるものではなかった。
延応元年(1239)4月、鎌倉幕府は次のような法令を出している(現代語訳)。
一、寛喜(かんぎ)の大飢饉(ききん)(1230~1231)のとき、餓死に瀕して売られた者については、彼らを買い取って養育した主人の所有を認可した。本来、人身売買はかたく禁じられていることであり、これは飢饉の年だけの特例措置である。しかし、その後になって、身売りした者を飢饉のときの安い物価で買い戻そうというのは、虫が良すぎる話である。ただし、売買した双方が納得ずくで現今の相場で買い戻すのなら問題はない。
寛喜の大飢饉とは、日本中世を襲った飢饉のなかでも最大級のもので、当時「全人口の3分の1が死に絶えた」(『立川寺年代記』)といわれたほどの大災害である。わが国では古代以来、原則的に人身売買は国禁とされていたが、このとき鎌倉幕府は時限的に超法規措置として、人身売買を認可したのである。その理由は、餓死に瀕した者を養育した主人の功績を評価して、とのことだった。
■「価格は1万~5万円」わが子をやむを得ず手放す親も…
もちろん、それは表向きの理由で、実質はこの機会に貧乏人の足元を見て下人を買いあさり、経営を拡大しようとする富豪たちの利益を幕府が保護しようとした、と考えることもできる。
しかし、幕府法以外でも、飢饉における人身売買は特例である、という意識は思いのほか社会に浸透していたようだ。次に紹介するのは、この頃に父母がわが子を他人に売却したり、質入れした人身売買文書のなかの一節を現代語訳したものである。
*「去る寛喜の大飢饉のとき、父も息子二人も餓死寸前であった。このまま父子ともに餓死してしまっては意味がない」(13歳と8歳、代400文と110文、1236年、『嘉禄三年大饗次第紙背文書』)
*「この子は飢餓で死にそうです。身命を助けがたいので、右のとおり売却します。……こうして餓身を助けるためですから、この子も助かり、わが身もともに助けられ……」(8歳、代500文、1330年、『仁尾賀茂神社文書』)
いずれも飢饉でやむを得ずわが子を売却するのだ、という親の心情が切々と綴られている。このうち、まず注目してもらいたいのは、ここでの彼らの売却価格である。彼らは500文から110文と、相場の4分の1から20分の1の値段(ほぼ5万円から1万円!)で売却されてしまっている。
それだけ飢饉時には困窮者や破産者が続出して、人身売買相場も異常なデフレ現象をみせていたのだろう。ただでさえ人身売買は禁じられているのに、こんな破格の値段での人身売買は到底許されることではない。
■人身売買は社会を維持するサブ・システムだった
それでも幕府は黙認せざるを得なかった。理由は、これらの文書に綴られているとおり、「餓身(がしん)を助からんがためにて候」、あるいは「父子ともに餓死の条(じょう)、はなはだ以てその詮なし」。すなわち、このままでは当人も親も餓死してしまう、それなら、一人が下人に身を落として、当人も親も助かるほうがマシである、というギリギリの選択だったのである。
こうした当時の人々の意識に押されて、鎌倉幕府も飢饉下の人身売買には目をつぶらなければならなかったし、本来違法である人身売買でも、その売買契約書に「飢饉下である」旨が記載されていれば、合法扱いとされたのである(さきに挙げた人身売買文書の一節も肉親の情愛が吐露された文面とみることもできるが、一方で、本来は違法である廉価の人身売買契約を合法化するため、主人側から求められて書かされた可能性もある)。
この後も戦国時代まで、日本中世では「飢饉」や「餓死」を理由に、人身売買は半ば合法化されることになる。飢饉にともなう人身売買は、中世社会を維持するためのサブ・システムとして、社会の構造に組み込まれていたわけである。
■人買いの「正義」
さて、そう考えると、「自然居士」で人買い商人たちが主張した「人を買い取ったら、ふたたび返さない」という「大法」も、あながち不当な言い分とはいえなそうである。
さきの延応元年の鎌倉幕府法の前段では、飢饉下では特例として人身売買を公認したと述べていたが、その後段では、「しかし、その後になって、身売りした者を飢饉のときの安い物価で買い戻そうというのは、虫の良すぎる話である」という文章が続いている。これは、人買いたちのいう「人を買い取ったら、ふたたび返さない」という主張によく似ている。
日本を揺るがした未曾有の大飢饉が収束して8年、当時、破格の値段でわが子を手放した親たちが自身の生活を立て直し、あのときに手放したわが子を買い戻そうという動きが全国で現れていた。問題は、その際の値段交渉である。
飢饉下では貧乏人の足元をみて二束三文に買い叩いておきながら、飢饉が収まったら、常識的な相場でないと返さないなんて、あまりに悪辣(あくらつ)だ、というのは親たちの当然の言い分だろう。
しかし、さきの人身売買文書で売買対象になった者たちの年齢に注目してほしい。ほとんどが現代なら小学生ていどの年齢なのである。成人と同じ労働量は見込めない。それでも、彼らに食事や衣服は与えなければならない。
だとすれば、飢饉当時と同価格での買い戻しが認められてしまったら、下人を購入した主人たちは、将来への投資として彼らを養育しておきながら、その投資をまったく回収できないことになってしまう。
■「正義」の反対にある「もう一つの正義」
これでは、バカをみるのは主人たちである。不景気のときは平身低頭して身売りしておきながら、景気が良くなったら恩を忘れて、現在の物価を無視して買い戻そうとするなんて、ありえない。これは、主人たちの側の当然の言い分だろう。鎌倉幕府法で飢饉当時の価格での買い戻しを禁じているのも、それなりに意味のあることだったのである。
現存する人身売買文書のなかには、「飢饉のため当時(=現在)の200文は、日頃の2貫文にも当たり候」という一文を書き加えているものもある(『池端文書』)。これも、後日、購入価格が不当であるというクレームをつけさせないために、購入者側の要望で加えられた一文なのだろう。
おそらく「人を買い取ったら、ふたたび返さない」というのも、購入時の相場と買い戻し時の相場の激変があることを見越して、そうしたトラブルを未然に防ぐために生み出した法慣習と見るべきだろう。
「正義」の反対は「悪」ではない。「正義」の反対には「もう一つの正義」が存在していたのである。
■人身売買が「悲劇」「克服すべき悪弊」に変わり始める
東京都墨田区の隅田川沿いの公園に、木母(もくぼ)寺という寺がある。そこは梅若丸少年を祀る寺で、寺内にはガラス張りの梅若念仏堂、隣には梅若丸を葬った梅若塚が残されている(寺号の「木母」は「梅」を2字に分割したもの)。
「隅田川」のストーリー自体はフィクションであるが、室町時代には無数の「梅若丸」がいたはずで、そうした悲劇をいまに語り伝える遺跡といえるだろう。毎年、梅若丸が絶命したとされる4月15日(旧暦3月15日)には、「梅若忌」が営まれている。
春は、現代人にとっては生命の活力蘇る季節として花見だ入学式だと喜ばれるが、中世では3~4月は、前年秋の収穫物を消費し尽くして、5月の麦が収穫される前の、最も飢餓に襲われやすい過酷な季節だった。
実在の「梅若丸」たちも、この時期に身を売られたり、儚くなったにちがいない。梅若丸の命日が「3月15日」というのも、そんな中世の記憶を反映しているのかも知れない。
室町時代は飢饉や戦乱で人身売買がさらに盛んに行われた時代だが、唯一の救いは、そうしたなかで、「自然居士」や「隅田川」など人身売買を「悲劇」とする文芸が多数生まれたという点だろう。
一方では鎌倉時代以来の「餓身を助からんがため」人身売買を許容する風潮も根強くあったが、時代はしだいに人身売買を「悲劇」として語るようになり、人々に「人身売買は克服すべき悪弊である」という自覚が生まれていったのである。ここに、わずかながらの歴史の「進歩」を認めることができるかも知れない。
■「まだ私たちは長い歴史の発展途上にいる」
天正18年(1590)4月、小田原北条氏を滅ぼし天下統一を果たした豊臣秀吉は、関東の大名たちに宛てて人身売買の全面禁止を命じている。とくに東国は、人身売買が野放しの土地柄だった。
「東国の習いとして女・子供を捕えて売買する者たちは、後日でも発覚次第、成敗を加える」(真田昌幸宛て朱印状)。中世から近世へ、時代は人身売買を必要悪として黙認する社会から、それを憎むべき悪弊とする社会へと変化していったのである。
しかし、残念ながら現代の日本社会においても、「奴隷」は存在している。借金で縛られ、あるいは口ぐるまに乗せられ、体罰や脅しによって自由を奪われ、売春や不当な低賃金長時間労働を強いられる人々は、明確に「奴隷」と定義される。
国際NGOのウォーク・フリー・ファンデーションによれば、その数はわが国だけで3万7000人にものぼるという(2018年現在「世界奴隷指標」)。人間を隷属させることを「悲劇」とする発想を中世日本人は獲得したものの、いまだそれを完全に克服した社会は訪れていないのである。
まだ私たちは長い歴史の発展途上にいる。この事実のもつ意味は、重い。
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明治大学商学部 教授
1971年生まれ。立教大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。専門は日本中世社会史。「室町ブームの火付け役」と称され、大学の授業は毎年400人超の受講生が殺到。2016年~17年読売新聞読書委員。著書に『喧嘩両成敗の誕生』、『日本神判史』、『耳鼻削ぎの日本史』などがある。
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