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【バ韓国】アジアであることを拒んできた日本のジレンマ [
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◇「日本らしさ」はどのようにつくられたか
非西洋国家の中で唯一日本だけが近代化に成功したという日本人自身の自己認識は、アジアから自分たちを切り離し、第3の独自のアイデンティティを獲得しようとする動機を与えた。その最初の試みが、19世紀末に西洋史・東洋史・国史(のちに日本史へ変更)として出発した歴史三分科体制であり、これもまた日本の発明品だった。これによって、アジアの後進性を口にする日本自身がアジアの一部であるという根本的な矛盾から逃れることができた。アジアを中心に据え、ユーラシア大陸の西側の端には欧州が、東側の端には日本が位置するという三極構図を想像し主張することは、アジアに対する日本の先進性と、西洋に対する対等性を主張できる、日本にとって最善の地域的操作だった。
欧州人にとってアジアが欧州らしさとは何かを画定してくれる古い慣習に満ちた外部であったように、日本人にとってもアジアは自らの近代性を確認させてくれる後進的で停滞した空間として存在した。「私たちは彼らとは違う。だから私たちは彼らではない」という否定の方式で自己のアイデンティティを築いてきたのは、人類社会が始まって以来定着した慣行である。相手との文化的差異が際立つほど、私たちと彼らの境界がより明確になる効果が期待できるため、その差異はより否定的な方向に誇張されたり、ときにはねつ造されたりした。中国・ロシアに対する戦争に勝利し、列強の地位に上り詰めた日本を「東洋の中の西洋」「アジアの白人」とみなす外部の視線を、不快に思ったり拒否したりした日本人が存在したという形跡は見当たらない。日本の例外的成功が強調されるほど、日本国内では東洋・アジアとの違いを本質化しようとする試みが強まった。
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敗戦後、文化国家を掲げた日本は米国との同盟体制の下で、欧米との関係を強化した。経済復興に邁進した末、世界第2の経済大国となり、西側先進国G7の一員となった。日本のアジアへの関心が特に大きくなったわけではないが、経済大国・日本を中心とした地域国家間の分業体制が形成された。いわゆる「雁行モデル」だ。雁が群れをなして飛ぶ姿は、上下が逆になったV字型だ。日本が先頭を飛び、その後ろを韓国・台湾・香港・シンガポールといったアジアの四龍が続いた。そのさらに後ろには、タイ・ベトナム・マレーシアなどASEAN(東南アジア諸国連合)諸国がいた。誰もが記憶している1970~80年代の東アジア地域の産業発展モデルだ。力を誇示できた過去とは性格が違ったが、日本はアジアの盟主としての地位をほぼ一世紀にわたり維持してきたといえる。
しかし1990年代以降、中国が国際分業体制に参加し、韓国や台湾などが一部の先端産業で日本に追いつき、あるいは追い越すようになると、雁行モデルは崩壊した。これは日本の自己アイデンティティの危機を意味した。同時に「失われた30年」といわれる苦難の時期も訪れた。
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日本も同じだ。いまや中国だけでなく、かつての植民地だった韓国・台湾との間でも、厳しい先頭争いに追い込まれている。模範生として、盟主としての優越的な自己像を映し出してくれた「アジア」という名の鏡は、もはや存在しない。アジアの再定義が必要であり、それは究極的には自己の再定義でもある。日本は自らの姿を、アジアと西洋という二枚の鏡に交互に映しながら、自分の位置を確立してきた。どちらの鏡であれ、中心志向という角度から最も肯定的に映る自己像を追い求めてきたのだ。中心志向の心理は人間すべてに普遍的なものだが、それがもたらす弊害は大きく、そして持続的だ。
ユン・サンイン/前ソウル大学アジア言語文明学部教授
https://news.yahoo.co.jp/articles/f8b3c28dedf4d4c79447c5801843c0a446de2354






